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死を前にしての満足な愚者と不満足なソクラテス
先日、加入している生命共済組合から、
年齢区分に因る保険料変更の通知が送付されてきた。
月々の保険料は200円の値上げ。
死亡保険金は200万円から100万円になりました。と書いてある。
つまり、歳をひとつ重ねた分、
死へのリスクが高くなったということなのだろう。

このような些細なことでも、
着実に死に向かって歩を進めているのだということを
実感させられる。
頭髪の抜け毛も気が付けば白髪が増え、
老眼も進み、本も新聞も老眼鏡無しでは読めなくなった。
こうして徐々に体が老いてゆき、
いつの日かこの世とおさらばするのねぇ・・。


ところで、人が死ぬとはどういうことなのだろうか?
事故死は想定しないで、私に寿命が来て死ぬことを考えてみた。
もちろん、医学的知識は皆無。
私自身が納得すればいいだけなので、
独断と偏見で私自身を納得させる作業に入ってみた。

歴史上、一度死んで生き返った人はイエス・キリストのみ。
普通の人々は一度死んだら生き返ることはない。
死だけは誰の元にも平等に訪れる。

初めに思い浮かぶのは、死とは「無になること。」
例えれば、
「熟睡して夢も見ない状態が永久に続くようなもの・・」
「全身麻酔をかけられて、意識消失をした状態が永久に続くようなもの・・」

と考えれば、
今夜眠りについて、明日の朝に目覚めなければそれが死というものであろうか。
それなら、大した問題ではない。
そのこと自体に恐怖は感じない。



だが、なぜ、人は文化、宗教に関係なく死を恐怖と感じるのか?


① 無になるのが怖い。
② 自己意識の消滅が怖い。
③ 未知の経験を恐れる。
④ 恐怖心というのは、初めから遺伝子に組み込まれている。
⑤ 死に至る過程の肉体的苦痛と精神的苦痛を想像するのが怖い



人は皆確実に死ぬ!ということは誰もが理解はしているが、
今日、明日、その日が来るとは誰も思っていはいないことだろう。
煩悩を満足させてくれる楽しいことをして、
叶う、叶わぬはさておき、夢と希望を持つことができるのは人間のみ。
この世界は陰と陽、光と影、プラスとマイナス、生と死。etc.............
どのような事象も表裏一体で構成されている。

結果、死への恐怖こそが今を生きているということの証なのだろう。
私が臨死体験をしたときは、肉体的苦痛はまったく感じず、むしろ至福感の中にいた。
死は決して恐怖体験などではなく、心地良いものだと、今日も自分を納得させている。

ただ、①②③④はそれなりに納得できたが、
『⑤ 死に至る過程の肉体的苦痛と精神的苦痛を想像するのが怖い。』
を納得させられない。
肉体的苦痛は医療用麻薬でどうにでもなるとは思うけど、
セデーション措置でもしてもらわなければ
精神的苦痛を想像するのが怖い・・。


ところで、
満足な愚者のままで生を終えるか?
不満足なソクラテスのままで死を迎えるか?
を思うと、満足な愚者のほうが幸せではあることが判る。

でも、最期の最期まで、「きれいごと」の世界で、
「ありがとう♪幸せでした。」なんて言いながら息絶えるのも
なんだかねぇ・・・・。



何故か気になる世界の偉人or有名人or無名の人が最期のときに発した言葉から。

食べたくない。このまま寝とる  by成田キン

ああ、苦しい、今、死にたくない。 by夏目漱石

死を前にしてはニーチェもキルケゴールも役に立たなかった。 by瀬田栄之助

わが神よ!どうして私をお見捨てになったのですか。 byイエス・キリスト

眠れる……、やっと眠れる。 byミュッセ

友よ拍手を!喜劇は終わった。 byベートーベン

もっとシャンパンを飲んでおけばよかった。 byメイナード・ケインズ

拍手を。お芝居は終わりだ。 byアウグスティヌス

なるほど。これが死というものか。・・・ところで・・・・。  byカーライル 

よろい戸を開けてくれ。光を……、もっと光を……。 byゲーテ


以下は臨終の際の意識混濁に至る前に枕元で呼び掛ける家族に向かって・・

うるさい!もっと静かに逝かせてくれ! by親戚のおじいちゃん

アイスクリームが食べたい!ああ、ウ○コもしたい…… by親戚のおばあちゃん

ここは地獄の一丁目かい?  by親戚のおじいちゃん

おじいさんが呼んでるのよ。早く行かなきゃ!  by友人のお母さん

ああ、やっと、完全なる自由を手に入れられるのね。ところで… byナス代(こうほざく予定)
 110123r
現世(うつしよ)はけだるき砂漠常世(とこよ)ではまどろみながら花に埋もれむ
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テーマ : ひとりごと ジャンル : 日記

死の受容までの5段階説。名も無き人々ほど穏やかな最期を迎えられる?
週に数回、所用でバスに乗る。
そのバス通りに2件の民間葬儀用ホールがある。
なにげなくバスの窓から見ると、いつも見知らぬ方の葬儀が行われている。

表玄関に貼られた故人になられた方の名前から想像して、
彼は、彼女はどのような人生を送り、どのような最期を迎えられたのだろうか・・?
と、一瞬だが想いを廻らすことがある。


そもそも、私が終活(老い支度と死に支度)を始めようと思ったのは
残り少ない生の時間をどのように有意義に過ごすか・・を考えていたときに、
「生を追及すれば答えは死に至る。死を追及して再び生を見い出す。」
という言葉に出会ったことにある。

だが、残念ながら、無知、無学な私が最期の日まで「死を追及して再び生を見い出す。」
ことは不可能だろう。
でも1%でも見い出すことができたなら、また納得できたなら、
私の人生はそれなにりに成功した。と考えるようにしている。


ラ・ロシュフコー(1613~1680)の箴言集より
「死を理解する者はまれだ。多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。
人は死なざるを得ないから死ぬわけだ。」



現実生活での終活はまだ始めたばかりだが、
このブログに、これだけ「死」という言葉を並べ立てていると、
何故か「自分の死」に対しての恐怖心が希薄になってきた感じがする。
「慣れ」なのだろうか?



E・キューブラー・ロス(1926~ 2004)は、
著書「死の瞬間」--死とその過程について--
の中で「死の受容への過程」には、
 
wikipedia:死の受容についての研究 より

第一段階:「否認と孤立」
病などの理由で、自分の余命があと半年であるとか三か月であるなどと知り、
それが事実であると分かっているが、
あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。
それは冗談でしょうとか、何かの間違いだという風に反論し、
死の事実を否定するが、否定しきれない事実であることが分かっているがゆえに、
事実を拒否し否定し、事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。

第二段階:「怒り」
拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、
「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかける。
このとき、当然、そのような形而上学的な根拠は見つからない。
それゆえ、誰々のような社会の役に立たない人が死ぬのは納得できる、
しかし、なぜ自分が死なねばならないのか、
その問いの答えの不在に対し、怒りを感じ表明する。


第三段階:「取り引き」
しかし、死の事実性・既定性は拒否もできないし、
根拠を尋ねて答えがないことに対し怒っても、
結局、「死に行く定め」は変化させることができない。
死の宿命はどうしようもない、と認識するが、なお何かの救いがないかと模索する。
この時、自分は強欲であったから、
財産を慈善事業に寄付するので、死を解除してほしいとか、
長年会っていない娘がいる、彼女に会えたなら死ねるなど、
条件を付けて死を回避の可能性を探ったり、死の受容を考え、取引を試みる。

第四段階:「抑鬱」
条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、
どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、
閉塞感が訪れる。
何の希望もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えない。
このようにして深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込む。

第五段階:「受容」
抑鬱のなかで、死の事実を反芻している時、死は「無」であり
「暗黒の虚無」だという今までの考えは、
もしかして違っているのかもしれないという考えに出会うことがある。
あるいはそのような明確な考えでなくとも、
死を恐怖し、拒否し、回避しようと必死であったが、
しかし、死は何か別のことかも知れないという心境が訪れる。
人によって表現は異なるが、
死んで行くことは自然なことなのだという認識に達するとき、
心にある平安が訪れ「死の受容」へと人は至る。

があると述べている。


もしも私の最期が明日だったら、第五段階の「受容」まで至らず、
きっと第一段階の「否認と孤立」の状態のままで見苦しくジタバタしながら、
死んでゆくのだろうな・・とも思ってしまう。

しかし、「死の瞬間」のP432に少しだけ救われる言葉を見つけた。
「一般に、教育や教養、社会的束縛、職業的責任のあまりない人は、
物質的な豊かさ、楽しみ、対人関係などの面でより多くを失うことになる裕福な人に比べると、
この最終的な危機を直視するのがいくぶん楽なようだ。
苦労の多い人生やつらい仕事、重労働に耐えてきた人、子どもを育て上げ、
自分の仕事に満足している人は、
野心的にまわりの人々を支配し、物質的財産をため、
多くの社会的関係はあっても
人生の最後に必要となる有意義な対人関係はほとんどない人にくらべ、
尊厳のうちに穏やかな死を迎えるのが容易である。
これは怒りの段階の例として第4章で詳しく述べたとおりである。」

と述べている。

つまり、全員が全員ではないけれど、
社会的地位の高い人や著名人は失うもの・・
人脈、資産、地位、名誉等があまりにも大きく多いために、
第二段階の「怒り」の中で死んでいく人が多いらしい。

著者のE・キューブラー・ロス自身は
世界的に功成り名を遂げた著名人であるがゆえに、
あまりにも失うものが多かったのだろうか、
自分で唱えた第五段階の「受容」に容易に至らないままに、
死への怒りや恐れをありのままに言葉や態度で表し、
ジタバタしながら自らの死を迎えたらしい。
(何年も前にNHKでそのようなTV番組を見た記憶がある。)

教養、人脈、資産、地位、名誉等な~んにもない私。
せめて第五段階の「受容」の入り口ぐらいまでにはなんとか到達してから
穏やかな死を迎えたいものである。
101218r
千億の後悔秘めし我が生に形状記憶の霧が降り積む
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テーマ : 「生きている」ということ ジャンル : 心と身体

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Author:千風
気が付けば、六十路.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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