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宗教による癒しとジハードとあの世
2週間前ほど、いつものプールに行ったら、
震災後初めて顔を見せたプー友(50代後半女性)が来ていた。
プー友の間では、一ヶ月も顔を現さないと、仏様にされているのが常なので、
勝手に殺されてはたまらんと、
「まだ生きているわよ~~~~(m´ρ`)m~~~~」と、
げっそりと痩せこけて、まるで幽霊のような風貌で現れた。

彼女は震災関連のニュースを見過ぎて、、
親を津波で亡くして震災孤児になってしまった子供たちや、
その逆に、子を亡くしてしまった母親の映像を見ると、
母性本能への負の刺激が強すぎて、いても立ってもいられず、
胸が締め付けられて涙も止まらなくなり、そのうち食欲もなくなり、
結果、ストレス性急性胃炎に罹患して一週間ほど入院していたと言う。

「それでも震災関連ニュースを見ずにはいられないのです・・。」

と担当医に相談したら、心療内科を紹介され、
今現在は精神安定剤を服用していると言っていた。

そんな話を聞いていたら、その昔に読んだ心理学の本を思い出し、
心理学には禁じ手である「宗教による心理療法」を勧めてみた。

何処かの怪しげな新興宗教に入って信者になったら・・と言うのではなく、
通りすがりに神社仏閣や教会を見かけたら、
少し立ち止まって、
「亡くなられた方々の魂を鎮めるためのお祈りをしたらどうかしら・・」と、
軽い気持ちで勧めたのだが、
昨日一週間ぶりにプールに現れた彼女は少しづつだが、
元気と優しさが溢れる元の彼女に戻りつつあった。
今現在も買い物ついでに、
家の近くの神社と寺院で祈る行為を続けているという。
「御霊よ安らかに・・」とつぶやく、「祈る」という行為で、
どうやら、「宗教による心理療法」が功を奏したようではあるが、
私から見れば、彼女の普段の言動や行動から、
暗示や催眠術にすぐに罹りやすい心の持ち主のように見えるので、
特定の宗教に属していなくても、日本人に連綿と続く、
生物や無機物を問わず、全てのものの中には霊魂、
もしくは霊が宿っているというアニミズムの考え方により、
人によっては多大な「癒し効果」もあるものらしい。

このケースは、他愛がなく些細な宗教の力で癒され、
救われたという話しではあるが、
目線を世界に向けると、大きな宗教の力には怖さだけが際立つ。

一昨日、米国CIAが、テロリストであると言われている、
オサマ・ビンラディン容疑者を殺害したとのニュースが駆け巡った。

私はオサマ・ビンラディン殺害の報を見て聞いて狂喜乱舞する米国民を見ていて、違和感を覚えてしまった。
まさに、為政者の暗示によって踊らされる、
木偶人形を見ているがごとき感覚に陥ってしまったのである。

同時多発テロでのあの決死の行為と行動をを思いだすに付け、
神の為なら死をも厭わないという、宗教の怖さをまざまざと感じるのであるが、
米国が正義を繰り返して連呼しても、
世界各地で再び報復テロが続出することは確実であり、
報復には報復を!という負の連鎖が断ち切られることはないだろう。
今後も聖戦という名の下に、
まさにイスラム教とキリスト教との宗教対決のように見せかけて、
その裏に見え隠れするエネルギー資源強奪と利権を得ようとする人々の作為に
言い知れぬ不安と恐怖を感じる。

アルカイダの報復が米国の同盟国や友好国へのテロ行為に及ぶ可能性も否定はできない。
特に日本は今、外敵の危機に関して無防備状態である。
報復原発テロが起きたらどうするのだろうか・・。

疑問に思うのはオサマ・ビンラディンをなぜに殺害ではなくて、
生け捕り→刑事裁判の姿勢を堅持しなかったのだろうか?
テロリストとは言え、国家による個人の殺害という手法が
果たして国際的に許されるのだろうか?

などと、いろいろな疑問や疑惑が過るが、
ボケた頭では分析のしようもないので、
そのような小難しい話は専門家に任せるとして、
死への恐怖も人生の苦しさも悲しみも宗教で救われるのか?
という話をしたい。

死の間際にあっては宗教は少しは死の恐怖を和らげてくれるとは思う。
それは私とて認めざるを得ない・・・。

宗教全般には全く無知なので、
おおざっぱで浅はかなイメージだけで書くと、
キリスト教の例では、幼いころに洗礼を受け、
信仰になんの疑問も疑いも抱かずに、
主は常に傍にいて見守っていてくださると、
大人になるまで神(主)信じ続けてきた人ならば、
聖書の棒読みでも、死への恐怖は軽減されるだろう。
おおざっぱな死生観としては、永遠の命を手に入れる者と、
地獄に堕とされ、やがては消滅してしまう者とに分かれるらしい。

イスラム教では、親の片方がムスリムならば、
その子もムスリムとみなされるそうである、
そして、殉教ともなれば、あの世では英雄扱いされる。
何しろ神の国でヒーローと認められるのだから、
そうなれば死の恐怖はない。

私などは、普段はお寺の前は素通りでも葬儀のときだけに俄か仏教徒となる。
家族を失ったときなどは、遺族は遺体や遺骨に拘り、
産廃物と化した肉体を遺骨として変化させ、丁重に弔い、
いついつまでも供物を捧げ崇め奉る。
そして、時間を経て、やがては心の平穏と平安を取り戻し
無事にあの世へ送り出したという安堵感から、魂は浮かばれると錯覚し、
そこでやっと、家族の死を受け容れることができるのである。

では死にゆく者にとってはどうなのか?
通常では仏教は「輪廻転生」を受け継いでいるので、
49日間の中有(ちゅうゆう)を経て、六道(りくどう)にいくことになっている。
六道のどの世界に生まれ変わるかは、生前のおこないによって決まるらしい


だが、しかし、宗派に拘らず本来の仏教を繙くと魂の存在を認めてはいない。
我々が今死者の魂や霊に拘り続けるのは、歴史的に見て、
時の為政者による仏教の大衆化を図る道徳的方便でしかないという見方に偏るざるを得ないが、
それでも我々は死者を弔い、その後も崇め奉ることを放棄できない。
日本人は長きに渡り、葬式仏教という刷り込まれてしまった
カルマを信じ続けることしかできなってしまった。
死者に対しては、特に熱心なクリスチャンや、イスラム信者や、新興宗教の信者以外は、
何がなんでも、宗派を問わず仏教でしか癒されないという
死生観を持たされてしまったからなのだろう。




ニュースを見ながら夫に、
オサマ・ビンラディンは水葬にされたんだってね。宗教的にはどうなのかしらね?」
等々の話しをしていたら、
「人は死んだら終わり。あの世で英雄になるかどうかなどの話は
無知な人々を都合よく動かそうとしている狡賢い人間が言っていることだ。
あの世のことは誰にも判らない。
それより今を楽しめ!宗教などという重い足枷はいらない。」
あの世は『酒はうまいし、ネェちゃんは綺麗だ♪』の世界でいいんじゃないか?」
と、あまりにもあっさりと言われてしまったので、
今日のところは難しく考えないで、夫の言うお笑い系のあの世感でいくことにした。
私は酒は飲めないので、
あの世は『ケーキはうまいし、ニィちゃんは皆イケメン♪』(^_^.)と
思うことにしたのでありますが、
宗教の効能を微々たるお布施や献金で癒しや救いの道具として使うのは結構なことだが、
一部の人の金儲けや野望の道具に使うのは旧約聖書の時代からなにも変わらないのね・・。



この世は諸行無常である。
今人間として存在している我々は
無数の因縁によって仮に存在しているにすぎない。
それが壊れたときに肉体の死が訪れる。
ゆえに、死後の世界にまでも、
永遠に存在しつづけるような我や霊などはない。
                    By 釈迦

死が老人だけに訪れると思うのは間違いだ。 死は最初からそこにいる。
                     By へルマン・ファイフェル
\110504r
初夏(はつなつ)のエチュード奏でる青葉雨エーテル麻酔に酔うごとき刹那
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tag : 心療内科 心理学 宗教による心理療法 新興宗教 オサマ・ビンラディン アニミズム 癒し効果 CIA 六道

人は死ねばゴミになる
タイトルに惹かれ、この本を買って読んだのは10数年前。
最近再読してみた。



検事総長であった著者は昭和62年7月に虫垂炎の手術をする。
しかし実は盲腸がんであった。
がんの再発、腸閉塞と続き、人工肛門を余儀なくされ、
その後の余命宣告・・。
どうせ残り少ない命ならと、後に残る家族のために、
そして親しい友人のために発病から死までを、
努めて冷静、客観的に書きとめた闘病記である。
生きる意味、病気との闘い方、
死を覚悟してからの死への準備などを
考えさせてくれる一冊である。

私はお涙ちょうだいの家族愛と感動の闘病記本にはあまり興味はないが、
この本は愛と感動を「売り」にしてはいない。
タイトルからも判るように死を美化してもいない。
淡々と死と向き合う姿勢に人間の強さと死への覚悟に言葉にならない共感を覚えた。


以下の青字は一部抜粋。


あとがきより

人は死ねばどうなるのかは人類の永遠の課題であり、
人はそれぞれ自らの心の問題として様々な死生観を持っているが、
君は本書の中でこの点に触れている。
「ゴミになる」といわれれば大方の人はびっくりするだろうし、
死後の世界との関わり合いの上に多くの宗教は成り立っているので、
その方面の人々は不快感を抱くに違いない。
しかし、人は死ねばただの物質に帰するという
君の考え方に共感する人も多いと思う。
ゴミといういささかどぎつい言葉を使っているが、
これも例の君一流の比喩だと思っている。



タイトルの「人は死ねばゴミになる」が、
本当に著者の比喩かどうかの真意は私にはわからないが、
日本人の死生観から鑑みるとインパクトは多大である。
愛する家族が死後にゴミ扱いにされては
違和感を感じる人がほとんどだろう。

だが、人は死んだら生物学的にはゴミ以外のなにものでもない。
ただやっかいなのは勝手にその辺に捨てられないゴミであるということだ。
遺族は死者を崇高なる魂を持つ者として儀式を執り行い、
天国や極楽に見送ったという気持ちで安堵しつつ、
死を美化しなければ、やるせない思いに囚われることだろう。
幼いころに刷り込まれた地域の祭祀慣習による死生観からは、
そう簡単には抜け出せないのも事実である。



P73
死んでいく当人は、ゴミに帰するだけだなどとのんきなことをいえるのだが、
生きてこの世に残る人たちの立場は、まったく別である。
僕だって、身近な人、親しい人が亡くなれば、ほんとうに悲しく、
心から冥福を祈らずにはいられない。
それは、生きている人間としての当然の心情である。
死んでいく者としても、残る人たちのこの心情を思い、
生きている間にできるかぎりこれにこたえるよう心しなくてはなるまい。

P74
遠藤周作氏は、『眠れぬ夜に読む本」の冒頭で、
二千五百人の「蘇生者」(医師による死の宣告後、
息を吹き返した人たち)にインタビューをした
キュープラー・ロス女医のスピーチを引き、
死後のもう一つの世界の存在の証明を示唆し、
「我々に先立って死んだ愛する者と死によって再会できるという希望は、
大きな悦びになる筈だ」
としておられるが、私には、乱暴ないい方をすれば、
死んだ後までこの世のきずなを引きずらされてはかなわんなあ、
という気さえする。キリスト者である氏と無宗教の朴念仁・私との感覚の差というべきか。



私のような無知、無学の大朴念仁・且つ特定の宗教に帰依していない死にかけお婆にとっては、
死を間近に見つめなくてはならなくなった時には参考になる個所が多々ある。
ありきたりな、死を美化する感動物闘病記とは一線を画す不思議な闘病日記である。



だが、この世には科学では検証できない摩訶不思議な現象も数多(あまた)在り、
霊や魂の存在も100%否定はできない。

そこで、「人が死んだらどうなるか? 」
について、短絡的に私自身の死後の世界のイメージを記してみた。

無になる。

天界人になる。

神と合体する。

光そのものになる。

絶対的愛に満ちた花園で永遠に遊ぶ。

宇宙塵になる。

千の風になる。

自然に還る。

もう二度と死ぬことのない神の国(天国)で永遠の命を授かる。

煉獄に落ちる。

極楽浄土で永遠に平穏に暮らす。

輪廻転生を待つ。

地獄で焔に焼かれ続ける。

血の池地獄で泳いだり溺れたりする。

この世に未練たらたらな霊になって、ずーっとこの世を彷徨う。

絶世の美女に生まれ変わるのを待つ。

怨霊になって昔夫が愛した女に取り憑く。(-"-)

etc...........

生物学的にはゴミに成らざるを得ないとしても、
やがては死なねばならぬ身なら、個人的には、できますれば、
「絶世の美女に生まれ変わるのを待つ」
をイメージして、いつかは必ず訪れるお迎えを待つと致しましょう・・。
20110306r
あの世への片道切符を握りしめ一夜の夢をまだ見ておりぬ
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テーマ : 「生きている」ということ ジャンル : 心と身体

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プロフィール
Author:千風
気が付けば、シニア.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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