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「私の嫌いな10の人びと」を読んで。どうせもうすぐ死んでしまうのに・・良い人を演じ続けることに疲れ果ててしまっている人には気分転換になる稀書かも?
私の嫌いな10の人びと」を読み終えました。


不快なことには徹底的に抗戦する哲学者
中島義道氏の合いも変わらずの、
世間一般から見ればエゴイストの権化のような本です。
著者が嫌いだ!と思っている人々の10パターンを取り上げ、
その理由を書き連ねています。







哲学者、中島氏の嫌いな10の人びとは、

1、笑顔の絶えない人
2、常に感謝の気持ちを忘れない人
3、みんなの喜ぶ顔が見たい人
4、いつも前向きに生きている人
5、自分の仕事に「誇り」を持っている人
6、「けじめ」を大切にする人
7、喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
8、物事をはっきり言わない人
9、「おれ、バカだから」という人
10、「わが人生に悔いはない」と思っている人




だそうです。



8、物事をはっきり言わない人
9、「おれ、バカだから」という人

を除いては、一般常識的には理想的な好人物の印象を受けますが、
中島氏によれば、
10、「わが人生に悔いはない」と思っている人」
については、「さっさと満足して死になさい」
と一刀両断に切り捨て、とても辛辣です。


1~10までの全部を取り上げるのも面倒なので、(笑)
2つの章の一部だけを取り上げてみます。


「常に感謝の気持ちを忘れない人」

『『放浪記』の一七九五回公演を達成し二〇〇〇回公演を目指す森光子も、
この奇跡的な偉業について感想を求められるたびに、
「お客さまのおかげです」の連発。
政治家がおまじないのように「国民のため・・・・・・」
と唱えるような、つまりそう言ってまちがいないという心理状態に支えられた、
謙虚に見えてずるい言葉に思われました。
もちろん、森光子さんはほんとうにそう感じているのでしょう。
でも、さらに正確に言えば、「ただただお客様のおかげ」ではなくて
「お客様のご支援と、私自身の不断の努力と、偶然のため」
と答えねばならないことぐらい彼女は知っているはずだからです。

・・・中略・・・

蛇足までに、私も物書きの端くれですが、いままで一度たりとも、
「お客様のおかげ」と思ったことはありません。』P32



「みんなの喜ぶ顔が見たい人」

『「みんなの喜ぶ顔が見られたらそれでいい」
「みんなが喜んでくれるだけでうれしい」……
こういうせりふをこの国ではなんと頻繁に聞くことでしょう。
そして、私はこういうせりふがなんと嫌いなことでしょう。
なぜなら、彼らは自分の望みがとても謙虚なものと思っている、
という根本的錯覚に陥っておりながら、それに気づいていないからです。
「みんなの喜ぶ顔が見たい」とは、なんと尊大な願望でしょうか!
その願望は、結局は自分のまわりの環境を
自分に好ましいように整えたいからであって、エゴイズムなのです。』P53









同世代の友人が現在ガン闘病中なのですが、

「いつも笑顔の絶えない人」
「常に感謝の気持ちを忘れない人」
「みんなの喜ぶ顔が見たい人」
「いつも前向きに生きている人」

を絵に書いたような人であり、
世間一般では良い人と見なされる模範のような人です。

お見舞いに行く度に「暗い話は聞きたくないわよね・・?」
と無理して笑顔を作り、
すぐに前向きで明るい話題に持っていこうとします。
私としては、ガン闘病中なのだから落ち込んでいて当たり前であり、
私とは長い付き合いなのだから、
遠慮なく心身の苦痛を訴えて欲しいと思っていますし、
私は今後の参考のためにも、
ガン闘病中の心身の状態というものを訊きたくて仕方がないのですが、
彼女はそういう話はおろか、心身の苦痛に関しては一言も口にしません。

彼女の無理して笑顔を作り、
無理して人生を演じている様子を見ていると、
私まで切なくなります。
だからと言って彼女を嫌いにはなりませんが、
たかだか、お見舞いに来た人の気持ちを思いやるよりも、
もっともっと自分の心に正直なエゴイストになって欲しい。
と思っているのですが、
彼女は死ぬまで良い人を演じ続けるのでしょう。
結局は自分のまわりの環境を
自分に好ましいように整えたいエゴイストとして・・。



いつも笑顔を絶やさずに、何事も感謝!感謝を信条とし、
人生は前向きであらねば!とか、幸せ探しに快感を感じる人や、
自分の心情を隠して極力争いを避けつつ、いつも良い人と思われたい。
そのような人には、この本は不向きです。
大げさに言うと、あなたの実践している
「良い人の常識」なるものはズタズタに打ち砕かれ、
再起不能になること間違いなし!だからです。

また、対人関係において自分が良い人を演じていることに
まったく気付いていない人は、
1ページ読んだだけで嫌悪感をもよおすと思われますので、
ご覚悟なされますように。(笑)





著者は本を買ってくれた人々に感謝は一切しないと明言しています。
それでも、良い人でいることに疲れ果ててしまっている人々の中には、
社会の常識とは考え方の180度違うこの著者の本を読み、
ある種の安堵感を得る人が存在することも事実です。
逆に、読まなきゃ良かった。時間の無駄だった!と怒る人もいます。
私は、たまたま新聞広告に載っていた「ぐれる!」を初めて読んで、
興味が湧き、他の著書も読みましたが、
全面的に賛同することはできないでいます。
中島氏ほど好みの別れる哲学者兼作家はいないのではないでしょうか。







中島氏の本を読み終えた後にいつも思うのですが、
「どうせもうすぐ死んでしまうのに・・」
が根底に流れ、それが基幹となっている著者のご年齢は
1946年生まれの67歳です。
時間論自我論イマヌエル・カントが専門の哲学者ですから、
ご自分の残り時間内に為すべきことも見据えているかもしれません。
もしかして、辞世の句ならぬ、
辞世の書も既に書き終えていらっしゃるかもしれません。
いつの日にか、中島氏がどのような遺稿を残されて、
どのような形でこの世から永別されるのか?
には、ものすごく興味があります。

中島氏がこのブログを訪れる確率はゼロだと勝手に思っていますので
言いますが、著者の容姿も著書から受けるイメージ上の性格も、
100%!私の好みではありません。(笑)



それでも中島氏は、自分の周りに溢れる不快感を取り除くことと戦いつつ、
社会の常識と言われている事象に真っ向から異を唱え、
自我を正直に貫き通す様子を書くことで、
話題のベストセラー本にはならずとも、著書はそこそこ売れています。
それは、私のように著者に感謝をされもせずに本を買う
もの好きなマイノリティがいるからです。
(ちなみに私はブックオフで一冊150円以内でないと買いません)

ということは、ある意味、戦う哲学者中島氏は、
自我を押し通すことによって金儲けが出来る
稀に見る幸せな哲学者=商売人=成功者なのでしょう。
中島氏の本は他にも読みましたが、
リアル生活の対人関係においては、
できれば争いのない円満な社会生活と家庭生活を営みたい、
と思っている私には中島氏のようにはできません。

中島氏のように多少の弊害があろうとも
主観的生活で生きることができるのは、
既に富と名声を得、
更には印税生活が可能な物書きゆえに出来ることなのでしょう・・。


不平等で不公平で矛盾だらけの社会の中で、
更には惰性で仕事や家事をしなくてはならない家庭という檻の中で、
良い人を演じて生きることに疲れ果ててしまった人や
物事を斜に構えてしか見ることができないほど、
人間不信に陥ったり絶望のどん底に堕ちた経験のある人。
またエスプリユーモアの解かる人。
「今からでも遅くはない!わたしは本当の自分で生きたい!と考えている人。
それに、「どうせもうすぐ死んでしまうのだから、
この際ブッ飛んで生きてみようか。」
と考えている人にはオススメかもしれません。
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tag : 私の嫌いな10の人びと 中島義道 時間論 自我論 イマヌエル・カント 辞世の句 辞世の書 哲学者 エスプリ ユーモア

老いへの不安―歳を取りそこねる人たち
この更新の少ない泡沫ブログにお越しくださる数少ないご奇特な方々は、
大部分がシニアorシルバー世代の方々だと思う。

それらの人々の中で、「老いへの不安」など微塵もありません。
と断言できる人が果たして何人いらっしゃるのだろうか?

私自身で言えば、心の中では、自分自身を年寄り扱いすると
ますますボケる、老(ふ)ける。
ゆえに自分はまだ実年齢よりも若いはず!と日夜、
自身を鼓舞しながら生活しているが
立て続けに40肩になったり、腰痛になったりすると
こういうときだけはつい「歳のせい」にしてしまう。
これも自分自身を年寄り扱いしていることになるのだろうか。
(実際に診てもらった整形外科医は、その原因と症状は『歳のせい』だと言う・・)


それに、ラジオ番組での健康コーナーで、
脳梗塞後のリハビリの方法などを聴いているときに、
私も今という時刻以降の未来に於いて、ピンピンコロリでは逝けずに、
自分の自由意思で移動できなくなる体になる日が近づいている・・。
という「老いへの不安」が嫌でも脳裏を過る。

私はやがては、今よりもひどい状態で老いさらばえて行かねばならない。
そのとき私はどのような心理状態になるのだろうか。
またそのアンハッピーゾーンまだ未体験であり、未知の領域なので、
人生への飽くなき好奇心としては非常に興味のある領域ではあるけれど・・。

また、私のように加齢とともにたそがれもせず、
鬱屈もせず、若さへのジェラシーも持たず、
ただただ、「ハッピー前向き生涯現役幸せ探し
日々感謝希望自分探し」等を
信条として、老いの日々を前だけを向いて邁進している人がいるとしたら、
バイオフィリアの典形ですものねぇ。ほんと、羨ましい限りだわ。(*^_^*)



本書によると、
「世の中にはまことに嫌な法則がある。
嬉しいことや楽しいことに我々の感覚はすぐに麻痺してしまうのに、
不快なことや苦しいことにはちっとも馴れが生じない、という法則である。
不快なことや苦しい事象は、砒素や重金属のように体内へ蓄積して
害を及ぼすことはあっても耐性はできないものらしい。
だから老人は鬱屈していく。歳をとるほど裏口や楽屋が見えてしまい、
なおさら難儀な者のみが我が世を謳歌できるシステムになりつつある。」
らしい。


今年、2012年は団塊の世代の先頭集団が
国民健康保険でいうところの前期高齢者の仲間入りをした。
本書はその世代の前後の人たちに対しての
「老人たちの見本張」の様相を為している。
また、登場人物たる老人たちは、正直者で真面目な善人ばかりではなく、
自分では自覚していないであろう一癖も二癖もある老人ばかりなのが
私の興味をそそった。

私自身は一癖もない、ちょっぴり人生にたそがれているだけの、
つつましやかな、ただのばーさんだと思っているけれど、
人間が100人いれば100通りの価値観がある。
他人様からみたら、私は一癖どころか三癖も四癖もある
気難しいばーさんなのかもしれないし、(・・?
また真逆に、単純素朴でノー天気なばーさんかもしれない。(?_?)

要するに一番判っているようで判っていないのが自分自身のことなのかもね。


「淋しくもありませんよ。わたくしは自分で決めた通りにやっているんですから。
年寄りが淋しくなったり、可哀想になったりするのは、自分では何にも決められなくて、
人の言うがままに動かされてしまうからですよ。わたくし、そう思いますね。
それじゃあ、身体が丈夫だって、寝たきり老人と同じじゃありませんか。
愚痴をこぼしたり、つまらない事を僻んだり、自分が自分の主人じゃなくなるから、
そんな惨めなことになるんです。わたくしは、違います。
ですから、わたくし、倖せなのですよ。」
高井有一著 「鳩と老人」
P63



「若くあろうとすることについて」

若さへの憧れは、ちっとも異常ではない。むしろ当たり前のことであろう。
だがアンチ・エイジングには往生際の悪さといったことではなくて
もっと別な種類の違和感を覚えもするのである。
気持ちは分かるが、どこか自己陶酔めいた軽さが付きまとって気色が悪い。
だからわたし自身、息子の世代と大差のない服装をしたり
「年甲斐のない」音楽へ秘かに情熱を傾けたりしつつ、いまひとつ居直れきれない。
もやもやと居心地が悪い。
(そのくせオレはストーンズよりも年下だ、などとわざわざ思ったりする。)。
自分に対してもそうだから、同年代の他人が若さに執着していたなら、
それが意識的であれ無意識であれ苦々しい気分になる。
寛容になれない。勝手なものである。
笑顔と軽々しさと空元気とが混ざり合ったような「アンチ・エイジング的なもの」には、
どさくさに紛れて人生における難儀なものを引き受けずに
済まそうとしているかのような印象が付きまとう
いや、そんなふうに感じるのはわたしだけで、
すなわち世を拗ねた偏屈な精神から発していることは自覚している。
が、世の中全体が軽躁状態になったかのごとく
若さを闇雲に信奉しているその風潮には、歳相応の思い違いや恥を無効に
してしまおうとする小賢しい手口みたいなアンフェアな感触を覚えてしまうのである。
まあそれはそれで人生に対する工夫や発明の一環として捉えれば良かろう。
目くじらを立てるほうが大人げない。
ただし、そんなことで思い違いや恥から逃げおおせると思ったら大間違いである。
P84~85

わたしより前向く人よそこからはメタな世界が見えていますか  

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tag : ハッピー 前向き 生涯現役 幸せ探し 日々感謝 希望 自分探し バイオフィリア

「あなたは常識に洗脳されている」と書いた苫米地英人自身も原発安全神話に洗脳されていたという笑えない話。
だいぶ前に、過激なキャッチコピーに惹かれて、
ブックオフで300円で買った本、「あなたは常識に洗脳されている
(定価 ¥1,365 2010年9月5日第1刷発行)を昨夜から読み始めた。
初めは、なるほど、こういう見方もあるのか。と感心して読んでいたら、
50ページ目にきて、( ̄ー ̄?).....??あれま!??となってしまった。
その「あれま!な部分」とは下記の部分である。

誰も言わない東京スカイツリーの7「影響」とは?

電磁波が私たちの脳や身体に影響を及ぼすとすると、
現在建設中の東京スカイツリーを手放しで歓迎することはできません。
東京スカイツリーの高さは、634メートルになると予定されています。
東京タワーの高さが333メートルですから、その約2倍です。
それだけ高いところから、関東地方に広く届かせて電磁波を送るのですから、
かなり強い電磁波を発信しないといけません。
地元の人は、東京スカイツリーの経済効果を喜んでいますが、
その反面、人体に及ぼす危険性を認識する必要があります。
おそらく、発ガン率が上がるのではないかと、私は思っています。
ご存じのとおり、電磁波のうち波長が短い紫外線やX線、
ガンマ線には発ガン性があります。
強い電磁波を受けることで、これらと同じ危険性があることは無視できません。
さらに後ほど紹介するようなさまざまな現象が起こるようになります。
東京スカイツリーを建設するよりも、
原子力発電所を建設するほうが、よほど安全です。
原子力発電所を建設しようとすると、多くの人は反対すると思います。
しかし、原子力発電所のリスクは、強力な電磁波よりもはるかに低いと私は考えます。
日本の原子力発電所の稼働ノウハウは、非常に優秀なので事故になることはない。
日本の軽水炉は、軽水がバッファーになっています。
中性子の減速能力と吸収力が強いので、決して放射線が漏れだすことはないのです。
だから、、都会に原子力発電所を作っても、本質的には何の問題もありません。
多くの人が反対するから作れないだけで、技術的にも安全面でも問題はないのです。
ちなみに、この原子力発電所=危険」という常識も、洗脳の結果と言えるでしょう。
もちろん、廃棄物の処理も問題は、また別の問題です。
ただ、テロは危険です。原子力発電所を爆撃するようなテロが起これば、多くの被害者がでます。
しかし、それも確率は低いと私は思っています。
原子力発電所は、非常にセキュリティの厳しいところです。
そのような場所にわざわざ潜入してテロ行為をするよりも、
もっと効果的にテロを起こせる場所があるからです。
テロの目的は、無差別殺人で恐怖を生み出すこと。
ならば、原子力発電所を爆破させるよりも、東京駅や新宿駅や地下鉄の駅の中で、
サリンをばらまいたりするほうが効果的なのです。
P49~51

(太字は著者によるものであり、私が「あれま!(・・?) 」
と思った部分は青字にした。

あなたは常識に洗脳されている」が発売されたのは
福島第一原子力発電所の事故の約半年前になる。
もし、事故後に発行された本であったなら、
私が「あれま!(・・?) 」と思った部分は削除されていただろう。


たくさんのエライ肩書きを持ち、超天才Drと言われている?著者の苫米地英人氏でさえ、
「日本の原子力発電所の稼働ノウハウは、非常に優秀なので事故になることはない。」
などと原発安全神話洗脳されていた?ことになるが、
原発事故後、著者の原発安全神話洗脳は解けたのだろうか?(?_?)
またスカイツリーより低いとはいえ、
電磁波を出す東京タワーが建って54年になる。
東京タワー周辺の人々のガン発症率の統計は取ったのだろうか?

この本を読んで世間にはエライ学者先生が書いた
机上の空論による怪しい本が多数流通していることを知った。

結果、世間の常識に洗脳されていようが、いまいが、
そして、怪しげなスピリチュアル本に縋るよりも、
自分の直感を大事にして生きたほうが充実した人生を送れるような気がする。

一生(ひとよ)とは砂上の楼閣あしたには一筋の風で崩れてしまふ 
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tag : あなたは常識に洗脳されている 洗脳 原子力発電所 原発安全神話 スピリチュアル

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」 中村仁一著
昨今話題の大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)を読み終えた。
老いと死がテーマの本であるにも関わらず、ときには笑わせがら、
また感心させながら読ませる軽い語り口は素晴らしく、話題になるのも頷ける。



内容は大往生のための看取り専門医の経験に基づく死に方の考察と、
著者の人生観死生観宗教観を散りばめた、
老いと死に関するエッセイ風な本である。

今まさに老いを感じている私が、
やがて来る死を目の前で見つめなければならなくなるときが来る。
その準備として読んでみたが、
なるほど、こういう選択肢もあるのか・・と、
死についての或る程度の備えが出来るようにも思えた。
更には自分の死に様だけではなく、
配偶者の老いと死を見つめることにも参考になる部分が多々あった。


よく、「みんなに囲まれて死にたい」と口にされますよね。
しかし、病院での臨終場面を、よく思い起こして頂きたい。
親戚、縁者が大勢ベッドを取り囲んでいるが、
誰一人として死にゆく人間を注視していない。
みんな枕元のモニター画面に釘づけなんだわサ。
昔だったら、脈をとっていた医者が「ご臨終です」といった途端、
「おばあちゃーん」とすがりついて泣けたん」じゃがの。
しかし今は、モニター画面の波がピーと平らになったので、
「おばあ・・・・・・」といいかけると、波がピョコッと出る。
また、しばらくして波が平らになったので、
今度こそと「おばあ・・・・・・」といいかけると、またピョコッと出る。
これを4、5回やられると涙は引っ込むし、後ろの方では遠い親戚が、
「しぶといわねェ」かなんか口走る仕儀になる。
あれは、ほんとに罪な装置だわサ。
これこそまさに、みんなに囲まれながらの”孤独死”と
いっていいのではないんかいの。
P58~59



食べないから死ぬのではない。「死に時」が来たから食べないのだ

今、私たち日本人は、自然な出来事である「死」を、
日常生活の中からほとんど排除して暮らしています。
ですから当然、90歳代の親が死ぬことが、70歳前後の、
その子どもたちの念頭にない、ということが生じます。
自分たちだって、いつ死んでもおかしくない年齢に達しているにもかかわらず、です。
ですから、前述の通り、一部には年金狙いやリベンジがあるにしても、
大部分は、親の死期が迫っているという事実をつきつけられると、狼狽します。
そして、「こんなはずではなかった、こんなことならもっとああしておくんだった、
こうしておくんだった」ということで、延命に走ってしまうようです。
しかし、これまで述べてきた通り、発達したといわれる近代医学であっても、
延命治療で「死」を少しばかり先送りすることはできても、
回避できるような力はありません。
治せない「死」に対し、治すためのパターン化した医療を行うわけですから、
わずかばかりの延命と引き換えに、苦痛を強いられることになります。
まさに、「できるだけの手を尽くす」が、
「できる限り苦しめて、たっぷり地獄を味わわせる」
とほぼ同義になっているといっても、いい過ぎではない状況を呈しています。
これを防ぐにはどうしたらいいでしょうか。
それは、親が一定の年齢に達したら(繁殖を終えたら)、
「死」を頭の片隅において、かかわりを持つことだと思います。
つまり、人間はいつか死ぬ存在ですから、
明日死なれても後悔の少ないかかわり方をする。
そして、その日が来るまでそれを続けるということです。
よく、「点滴注射のおかげで一ヶ月生かしてもらった」などという話を耳にします。
しかし、よく考えてみてください。点滴注射の中身はブドウ糖がわずかばかり入った
、スポーツドリンクより薄いミネラルウォーターです。
「水だけ与えるから、自分の身体を溶かしながら生きろ」というのは、
あまりにも残酷というものではないでしょうか。
また、口から食べるのは自然といっても、
当人の身体が欲しがらなくなっているのにもかかわらず、
無理に口をこじ開けて放り込むのも同じことです。
「脱水」は、意識レベルが落ちてぼんやりとした状態になり、
不安や寂しさや恐ろしさから守ってくれる働きをすることは、
すでに述べた通りです。
それなのに、たとえ善意にしろ、せめて水だけでも、と無理に与えることは、
この自然のしくみに反し、邪魔することになるのです。
赤ん坊が、眠いのにいろいうろちょっかいを出されて
眠らせてもらえないのに似ています。
ひどい仕打ちだとは思いませんか。たしかに、見殺しにするようで辛い、
何もしないで見ているだけなんてことはできないという気持ちも、
わからないではありません。しかし、こちら側の都合だけで、
何かをするというのは、「エゴ」といっていいと思います。
その行為は誰のため、何のためなのか、やった結果、
どうなるかを考える必要があります。
本人は嬉しがるか、幸せに感じるか、感謝してくれるか、
あるいは自分だったらしてほしいことなのかなど吟味してみなくてはいけません。
たしかに私たちは、何もせずに見守ることに慣れていません。辛いことです。
だからといって、自分が苦しさや辛さから免れるために、
相手に無用な苦痛を与えてもいいという道理はありません。
「そっとしておく思いやり」もあるのです。
また、たとえ延命したとしても、悲しみはなくなりも減りもしません。
ただ先送りするだけなのです。
フランスでは「老人医療の基本は、本人が自力で食事を嚥下できなくなったら、
医師の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事です」
といわれているそうです。
(『枯れるように死にたい』田中奈保美著、新潮社)。
残される人間が、自分たちの辛さ軽減のため、
あるいは自己満足のために死にゆく人間に余計な負担を強い、
無用な苦痛を味わわせてはなりません。
医療をそんなふうに利用してはいかんのです。
辛くても「死ぬべき時期」にきちんと死なせてやるのが
家族の愛情”というものでしょう。P77~80




著者は自然死を勧める特養の常勤医師である。
そして、看取りと死亡診断書を書くことが主な仕事?
と思われる老医師でもあるが、これほど鮮やかに
自分の老いと死を見つめられるようになるには、
相当の臨床経験と看取りの経験を積んで来たのだろう。

私自身はといえば、繁殖期もとっくの昔に過ぎ、
またヒトとしての賞費期限もぎりぎりの身であるにも関わらず、
今もノホホ~ン、ボ~ンヤリと怠惰な日々を生きている。(^_^;)

人生の先輩としての著者の死生観については、
100%ではないが共感する部分も多々あった。

ただ、身体の痛みだけは我慢するつもりはないので、
己の確実な死期を悟るまでは、
今後もペイン・クリニック等の医療にはかかわりを持つつもりでいる。

あちこちが壊れて痛む老いの身に掛け声かけて関節励ます
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tag : 看取り 繁殖期 特養 死生観 人生観 宗教観 ペイン・クリニック

「死について考える」 遠藤周作


老人になれば

老年を見る見方が、私の少年時代と今では随分変わっているように思います。
私の少年時代には、老人を尊い方というふうぬ見る見方が残っていました。
尊い方と思うのは、人々が老人を向こうの世界の言葉を感じる世代として見たからでしょう。
しかし今では、不用品、厄介者、役に立たぬ者というふうに、ただ効用性のみで老人を
見ているように思えてなりません。
主婦を対象とした雑誌などに「老人の扱い方」などといったような記事がよくあるでしょう。
あれは厄介者をどう扱うかということで、
老人を丁寧に扱うとしても、厄介者として見る目が最初からあります。
老人を尊ぶという考えは、もう今の世の中には毛ほどもありません。
中国では教師である先生を、老師と言うのは「老」には敬意をあらわす意味があるからでしょう。
ギリシャの神々は若々しいけれど、日本の神様は白い髭を生やした老人の姿です。
松尾神社の神像の写真を見ると、おごそかな老人の顔をされています。
東洋では老人が尊ばれるという伝統があったのに、
平均寿命がのびて、老人社会の到来といわれるようになってから、
日本では急速に老人を厄介者視する傾向が出てきたように思えるのです。
(P179)

隠居という言葉が死語になりつつあって、
定年とか、第二の人生とかいわれていますが、
それは退却を転進といったのと似ているように思います。
昔は隠居するということは次の世界を信じ、そこに向かう旅支度だったのです。
隠居生活は今までの生活重点主義を捨てて人生を直視することだったのです。
生活に心を集中していると、本当の人生がボヤけてしまいます。
隠居することによって、人生を考える。
人生を考える上で最も大事なのは死の問題ですから、
死を考えるということになるのですが、
生活の中にまぎれているのは、
死を考えることを避けているように思えるのです。
昔の人は四季の営みもきちっと守って、人生の折り目節目もちゃんと受け止め、
処理していたのではないでしょうか。
死に対しても、ちゃんとした姿勢でそれを迎える習慣があったのではないでしょうか。
(P187~P188)


私の世代(60代)の知り合いの中には、
老いて自分の身の回りのことを自分でできなくなった父母(80代~90代)を抱えて、
自宅介護を選択して、時間的にも体力的に苦労をしている人や、
さっさと老人保健施設や特養に預けて自分の時間を優先している人もいる。
中には、「相性のまったく合わない鬼嫁に面倒を見てもらいたくない!」
と自分から進んで特養に入った80代の姑もいる。
嫁の立場からすれば善い姑ではあるが、姑の立場からすれば、
家族、特に嫁の厄介者にだけは絶対になりたくない!
の気持ちが強くて自ら特養入居を選択したのだろうが、
どんなに嫌でも、死の前には他者の手を煩わせなければ死んでいけないのだから、
なにも自ら進んで厄介者にならなくてもいいものを・・と私は思う。


亡くなった肉親や先祖たちのいる世界に戻るという感覚

日本には現世の利益を願う新興宗教がたくさんあります。
交通安全を授けてくださる神様や仏様もあります。
神様や仏様を信仰していたらいいことがあるという考え方には、
地上に天国を築くマルクシズムと共通したものがあると思います。
キリスト教信者の中にも、現世利益だけを求めて信仰している人が実際にいくらでもいます。
しかし本来の宗教というものはそんなものではない、と私は考えています。
子供が白血病になり、一所懸命に神様にお祈りしたけれども、子供は死んでしまった。
神なぞ何だ、と神を憎む、神も仏もあるものか、
というところから宗教は始まるのではないでしょうか。
神を憎むことも、神の存在をはじめから無視している宗教や無関心ではなく、
憎むということで神を強く意識していることです。
神があろうがなかろうがどうでもいいという無関心より、
神を憎むことの方がはるかに宗教的でしょう。
困るのは「熱くも非ず冷たくも非ず、なまぬるきものなり」という言葉が聖書にありますが、
神があろうがなかろうが、そんなことに関心がないというなまぬるき人です。
仏教でもこういう人は「度し難し」といっていますね。
でもそういう人も老年になり、死が切迫してくると、
はじめて人生の奥にあるものを考えるでしょう。
(P166)


私自身、神も仏もあるものか!と何度思ったかしれない。
そして最近、一度話をしたのが運の尽きで、
キリスト教系の宗教団体が何度も来るので、
インターフォン越しに「今日は神様は間にあってます。」と、
神様の押し売りを断わった後に、
心の中で「神など存在しな~いっ!」と心の叫びをあげたりしていたが、
著者の指摘通りに「神なぞ何だ、と神を憎む、神も仏もあるものか、」
の気分のときもあれば、
心身が少し弱っているときや、ぼんやりと生の残り時間を考えているときなどには、
心の片隅で神仏の存在や来世を意識している自分を発見したりする。

ここ数年、思いもよらない大きな自然災害が多発している。
まさか、地震津波原発事故神の御業とは断じて思わないが、
自身の死は寿命による病死だけとは考えられない時代になってきた。
常にメメント・モリを意識しているわけにもいかず、
新聞やTVとラジオのニュース等で、
見知らぬ人々の不条理極まりない死に方を目耳にする日々において、
それらの他者の死は納得できても、
自身の死も「明日は我が身」だけは今だに納得できていない・・。
きっと、その瞬間まで納得できないのかもしれない。


死というのは、たぶん、海みたいなものだろうな

入っていくときはつめたいが、いったん中に入ってしまうと……

               セスブロンの遺作『死に直面して』より



なまぬるき雨降る夜になまぬるき神思いつつ黙示録閉づ

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テーマ : 「生きている」ということ ジャンル : 心と身体

tag : メメント・モリ 地震 津波 原発事故 神の御業 黙示録

ここまで来た「あの世」の科学―魂、輪廻転生、宇宙のしくみを解明する

宗教的にではなく、科学的考察と銘打つ
あの世」とはどんなところか?を知りたくて、
「ここまで来た「あの世」の科学―魂、輪廻転生、宇宙のしくみを解明する」
(¥150 税込 BOOK OFFで購入)読んでみた。
科学的とは言え、あくまでも仮説の域を出ることはないが、
「宗教によるあの世観」と対比するのも一興のような気がする。
著者はソニーのロボット犬「アイボ」を開発した
プロジェクトチームのリーダー技術者であり、
深い科学的知識を元に書かれているらしいが、
私は物理学にはまったく縁がないところに、
量子力学だの、相対性理論だの、超ひも理論だのが出てきてチンプンカンプンの箇所も多く、
半分も理解できなかった。
ただ、第7章の「死後の世界 輪廻転生前世の存在を検証する P169」と、
第8章「無意識は神の化身か? 深層心理学からのアプローチ P191」
についてはそれなりに面白く読めた。

簡単に言えば、理論物理学者のデヴィッド・ボームという人が
現実に見えているこの世界(この世)=明在系と並行して、
もうひとつの目には見えない世界=暗在系(あの世)が
存在しているという概念を提示しているらしい。
勝手に解釈すると、この世とあの世は密接にリンクしながらも、
この世の生身の人間には決して感知できないパラレルワールドの世界ということになるらしい。

では、私がそのうちに行かねばならない暗在系=あの世とはどういうところか?
を第10章の「宇宙はひとつの生命体なのか?集合的無意識の極致は愛であり仏性である P239」
の中の「●あの世は壮大な無意識のネットワークだ」 
から一部引用してみた。

『―無意識の構造は、あらゆる「個体」同士が、
それぞれ異なる強度で結合された、全人類に広がる、
巨大で複雑なネットワークと考えることができます。いかなる「個体」も、
このネットワークと無関係に存在することは許されません―』

『―宇宙意識の基本構造は、壮大な「無意識」レべルのネットワークであり、
生命を得て生まれてくる「個体」は、
その大海の表面に発生した小さな泡のようなものでしょう―』


判ったような、判らないような・・・(?_?)

つまりは、人間が肉体の機能をすべて失ったら、
壮大な「無意識」レべルのネットワークに組み込まれ、
自我は完全に消滅し、「我思うゆえに我あり」も消失し、
無意識だけがゆらりゆらりと宇宙意識の中を永遠に彷徨う。ということなのだろうか?
だが、死によって脳細胞が完全に機能停止をすれば、
無意識の存在さえも消失するのでは?と思うのだが・・・
無知な大凡婦には、「あの世とは無意識レベルのネットワークである。」
などと言われてもピンと来るものがなく、理解も不可能である。

霊魂という存在は目には見えない。
錬金術や、あの世を示唆する「超ひも理論」なる
ド素人には難しい物理学の理論等を或る程度でも理解していないと、
科学的な「あの世=暗在系」のことを理解するのは難しいようだ。



科学的な「あの世」よりも、今日、戸別訪問で来た宗教(エ○バの証人)の
神の国への勧誘ウーマンのあの世の話のほうが判り易かった。

インターフォン越しではあるが、
「あなたは今幸せですか?
もし少しでも不幸な気持ちをお持ちでしたら、
お話を聞いていただけませんか?」
というので、家事労働で忙しかった私は
「神の存在を信じていませんから、お話は結構です。」と答えたら、
「えーっ!?あなた様は進化論を信じている唯物論者でいらっしゃるのですか?
進化論は完全なる間違いであり、我々は神による天地創造で造られた人間の子孫なのですよ!
この世界は7日間で神が創造した世界なのです。
わたくしは皆さまも永遠の楽園で楽しく平和に暮らして頂きたくて、
こうして布教に回っているのです。
せめて、お互いに顔を見ながら私の話を聞いていただけませんか・・」と言うので、
「もう、何回も話を聞いていますので、これ以上神様の押し売りはいいです。」
と言ったら、
「神を信じない人は死んだらすべてが無に帰して魂さえも存在しなくなりますよ。」
と力説して隣の家に向かって行った。
いつもくる布教者よりもすこしばかり布教マニュアルから外れているな、
と思った。きっと信仰に入って間も無いか、布教は新米の人なのだろう。

彼らの信じる神を否定すれば、不老不死にも成れなくて、
信仰しない人は死ですべてが無に帰すのなら、「エ○バの証人」以外人々は
全員が死んだらおしまい・・になることになる。
キリスト教にも数多の宗派がある。
基はたったひとつ教義であるはずだが、時の権力者の思惑の許、
今なお聖書の記述のみを重んじる原理主義者から、
進化論を科学的論説として容認したカトリックまで数限りない宗派に別れた。
信じたい人は信じればいい。信じたくない人は拒否してもいい。
信じるも信じないもその人の自由であり、
どのような死後の世界に行きたいかもその人の自由。
私は死後は「無に帰す」で結構ざますわよ。<(`^´)>

ほとんどの宗教は個体としての今を生きている人間よりも、
不滅?である霊魂のほうが本質的な存在だと説くが、
私は死後は「無に帰す」ことを願っているので、宗教的あの世にも、
科学的仮説のあの世である暗在系にもそれほど魅力は感じない。

どんなに科学が進歩しても科学的あの世は仮説の域を出ることはできない。
宗教の説くあの世は想像の域を出ることはできない。
結局は一度行ったら帰って来ることのできない世界であり、
いろいろ思い煩うよりも、儚く残り少ない現世の時間を思い切り楽しみ、
自分に取って都合の良いあの世を夢想することで生の終焉を迎えることにしたい。

現在この地球上にいる人間は70億人を超えた。
ということは、極端に言えば、70億通りのあの世が存在していても不思議ではない。
私も・・嫌でもそのうちに行くのだから、
そこで明確な証拠?を感じられるだろう・・。
もしも、そこが「完全なる無の世界」であったとしたら、
それはそれで私には望むところではある。

霊魂の存在についてはある思い出がある。
母がまだ生きていた頃に家族の守護霊について、
近所の霊能者にお伺いを立ててもらったところ、
母方の曾祖母が私の右肩辺りに守護霊として、
ぴったりと張り付いているそうな。
私にはまったく守護霊の存在は知覚できないが、
右肩が40肩になってときどき痛み、いつも重く感じるのは、
曾祖母の守護霊が原因なのだろうか?(?_?)

無知ゆえに神にきづかぬ我もまた神の計画の一部と思へり
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テーマ : 思ったこと・感じたこと ジャンル : 日記

tag : あの世 アイボ 量子力学 相対性理論 超ひも理論 輪廻転生 前世 深層心理学 デヴィッド・ボーム パラレルワールド

「不幸論」に見る幸福の条件
昔から、相も変わらず「幸せに成る方法」を説いた本が
数えきれないほど出版され続けている。
もし、それらの幸福への道の指導本を読んで、誰もが幸福に成れるのなら、
この世に不幸な人など存在しないはずであり、
あっと言う間に口コミで広がって大ベストセラーになり、
各家庭の神棚にでも飾られていると思うのだが、
それらの本が私がよく行くブックオフの片隅で誰にも見向きもされずに、
なぜ150円で売られているのだろうか?(?_?)

ひねくれお婆の屁理屈はさておき、この世は歴史が刻まれて以来、
幸福な人々は極々少数であり、
大多数の人々は不幸である事実は有史以来何も変わらない。

不幸な中で人々は小さな幸せもどきを探し、
一時的な満足感を得てそれを幸せと呼んでいる。
そして、相も変わらず他人の不幸を見て自分と比較をし、
私はあの人に比べれば幸せだと思いこみ、
不幸な日々の中で幸福という幻覚に束の間酔いしれるのであるが、
薬物投与による幻覚、もしくは脳の病気による幻覚ではないので
残念ながら、すぐに覚める。
そして再び、懲りもせずに在りもしない幸せ探しに没頭するのである。

そこで逆転の発想で「幸福論」ではなくて「不幸論」を再読してみた。

著者である哲学者の中島義道氏が
不幸論」の中で幸福の条件をあげている。
その条件とは、
(P50)
「盲目であること、
怠惰であること、
狭量であること、
傲慢であること
によって成立している。
それが私の基本的考えである。」

と言っている。

賛否はあろうが、
幸福でいるためには真実=本当のことは知らない方が良いということらしい。

例えば、
①福島第一原発の事故で近辺に撒き散らされた放射性物質
除染が進めば安心して家に戻れる。

放射性物質の半減期を見ても判るように、
道路や家屋の高圧洗浄も田畑の土の上下入れ替え等も、
他の場所に放射性物質を移動又は拡散させるだけであって
放射性物質が自然消滅するわけではないが、
そんなことは敢えて考えないことにする。

②福島第一原発の周辺自治体を視察した後に、
「市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形だった。」と発言し、
メディアに寄ってたかってバッシングされた元経産相。

来月で事故後一年になるが、今現在も第一原発周辺は人も家畜も住めない
死の町」であり、「ゴースト・タウン」であることは疑う余地のない真実である。


③国産の野菜や果物類を安心安全と信じて疑わない。

実は国産野菜も果物も農薬塗れであり、
低価格な輸入野菜と比較しても、散布される農薬の種類が違うだけで
決して安心安全ではないが、そのような不都合な真実は見ないようにする。

④ガンは早期発見で治療すれば長寿も夢ではない。

早期発見でも手遅れ状態での発見でも、
統計学上は死亡率は変わらないというガン専門医が増えてきている昨今、
行政、医療機関、ガン発症者、その他の大多数の人々が早期発見が大事!
というのでそれに従う。

⑤腹部に開けた穴に栄養剤を送り込む措置(胃ろう)を受けた患者を
「人間に寄生しているエイリアンが人間を食べて生きているみたいだ」
と発言した自民党の政治家Ⅰ氏。

彼は彼の脳内で感じたことを素直に表現したのだろう。

私事だが、私が6年前に長期入院していたときに、
同室の意識の無い胃ろう措置の95歳のお婆さんを見て、
いくらなんでもエイリアンとまでは思わなかったが、
こんなにされてまで・・意識も無いのに肉体だけは無理矢理に生かされて、
彼女はこういう状態を望んでいたのだろうか?と思ったことがある。
やがては私もこういう状態で生かされるのは嫌だな・・と思い、
退院後に終末期医療の要望書を記したという経由がある。



この社会では真実を言うことは誰かの気分を損ねる要素も含むゆえに、
純真無垢な幼子のように「ほんとうのこと」を言ってはならず、
嘘で取り繕った言葉で会話をし、嘘で固めた善なる言葉の羅列が良しとされる。

自分にとっての不都合な真実には目をつぶり、
愉快で楽しいとだけに目を向け、
社会の闇の部分や真実は見ないで怠惰で有り続ければ、
幸福という幻覚に酔っていられるだろう。

だが、価値観も人生のスタンスも人それぞれであり、
その人が死ぬまでの間に真実を見ないで嘘で固めた幸せを満喫するのも、
その人の選択した人生であり、誰にも否定はできない。
ゆえに、他人様が「怠惰で幸せ」を選択しても、
「真実を知って不幸になる」を選択しても、
私にはどうでもいいことであるが、
私自身としては生の残り時間も少なくなってきた今、
どうしても「真実を知りたい!」欲求が増してきている。

たいした人生でも無かった我が星霜を振り返れば、
私には幸福とか不幸という意識は無かった。
感覚的にあったのは「なにがしかの希望と大いなる絶望」
という人生の波だけであったような気がする。
そして、今もその波に揺られながも、
今を生きているこの世と、もうすぐ行くことになっている
あの世という異次元世界の真実を知りたくて、
壊れかけたアンテナを張り巡らせて老いを生きている。

終わりの見えない、また叶えられそうにもない「真実を知りたい欲望」ではあるが、
100人いれば100人の真実=嘘がある。
実のところ、この世では何が真実でなにが嘘かなどは誰にも判りはしないのではないか・・。
と考えざるを得ない部分もある。
それでもなお、私が望む回答に限りなく近く、
なんとなくでも納得できたらそれで良しとすることにしている。


P114
山田洋次監督の「寅さんシリーズ」はわが国では大ヒットしたが、
私の大嫌いな映画の一つである。
不気味な感じすら漂う。みんな寅さんのことを思って、
のべつ幕なしの集団的嘘が画面一杯にゴキブリのようにはい回っているからである。
彼に一度はっきりと「自分を欺くなよ」とか
「もういいかげん自分を甘やかすなよ」と言ってやれば、
どんなに彼は成長することか。
しかし、成長した寅さんではおもしろくないから、
山田洋次監督はいつまでもいつまでも同じところを
グルグル回る絶対に成長しない男を登場させるのだ。
まわりの者が寄ってたかって、真実を直視せず、
みずからの真の姿を見る勇気のない男をつくり上げる。
こうして、彼は何度辛い思いを味わっても、
いつまでも自己反省せずに「これでいいのだ」と思いこむのである。


P115
「寅さんシリーズ」に典型的であるように、
特殊日本人的幸福論者たちは他人を傷つけないためには
真実を曲げても隠蔽しても平気である。
嘘を語っても、いかなる良心のとがめも感じない。
だが、だれかが「ほんとうのこと」を語ろうとすると、
なんと周囲の者がとっさに青筋をたててそれを禁ずることであろう。
言ってはならない、知らせてはならない、という掟は、なんと強烈なことであろう。
みんな、真実を正確に表現することが、いかに平和を乱すかを知っている。
だから、みんなで共謀して真実を見ないようにしているのである。
見ても語らないようにしているのである。
特殊日本人的幸福論者は、こうした共同幻想に陥るところにこそ、
幸福があると確信している。
だが、こうして手に入れた幸福はなんと脆いものであろう。
それは幻想、幻覚であるから、そして人々は薄々それを知っているのであるから、
いったん真実が顔を見せはじめるや否や、ビリビリと破けていく。
幸福でありたいという願望にみずからがんじがらめになり、
手あたり次第に他人を同じ願望の絆でしばりあげ、身動きできなくさせて、
調和的幸福をひやひや維持している状態がみるみる砕け散っていく。
そのとき、真実を見るほうに進むのであろうか。
いや幸福論者たちは、手を携えてこの難局を切り抜けるために、
さらに壮大な嘘をつくことを誓い合うのである。
「こうした試練もまた私を鍛えてくれた。」と。
「この不運によって、前よりもっとひとの優しさに触れることができた」と。


私の知り合い(60代)にもにも幸福教の信者がいる。
既に盲信状態に入っているので周囲は見えず、また聴く耳も持たず、
私にも会う度に幻想の幸福の押し売りをしてくるのでうっとうしくて仕方がない。
「人間は幸せになるために生まれてきたのよ。
○○学会に入れば必ず幸せに成れるわよ。」と言うが、
彼女は○○学会に入会後に異常なほどに信仰にのめり込んだのが原因で、
夫は彼女に愛想を尽かして愛人を作って家を出て、子ども(30代の息子)は
引きこもりで年金パラサイトである。
傍から見たら、決して幸せとは言えない境遇であるが、
彼女にとっては、それはまだまだ自分の信心が足りないのと
功徳を得るための修業を与えられたのだから、
私は幸せ者だと言い張るのである。

それで幸せならば、私にはどうでもいいけど・・・(^_^;)
果たして彼女が存命中に功徳を得て、
「信心が足りた日=真実の幸せを手に入れる日」が訪れるのだろうか・・。


この日本には数多の新興宗教団体が存在し、
人々は現世での幸せとあの世での安寧を求めて入信するらしい。
神の声が聴こえ、交信できるとかいう人々も数多くいる。
果たして、新興宗教の教祖や代表者は本当に神の声が聴こえるのか?
脳の病気ゆえの幻聴なのか?ただの詐欺師なのか?
私には知る由もないが、そういう人々に幸せを与えてもらえることを願って集う、
自分の不幸に気付くことのない不幸な人々のなんと多いことか・・。
瞞(まやか)しの神に縋って、瞞(まやか)し幸せを知覚するのもその人の自由だが、
私には前述の彼女もそうだが、幸福教にコントロールされて、
自らの思考を停止した上に「幸福で在らねばならない病」に罹患した
哀れなクローン人間にしか見えないのである。



不幸論」によれば、
こうした熱病のような幸福教の大合唱の中でも、
真実に目覚める一握りの人がいるらしいので、
できれば私はその一握りの人側に入りたいと考えている。
例え、そのことによって精神的苦痛が増しても、
一度きりの人生・・私は知る喜びのほうが勝るような気がするのである。

知ることは深き悲しみ背負うこと・・教えてくれた君はもういない
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テーマ : 思ったこと・感じたこと ジャンル : 日記

tag : 不幸論 放射性物質 エイリアン 胃ろう 死の町 新興宗教 盲信 神の声 交信

「死ぬ瞬間」と死後の生①--死にゆく人への禁句
死期が迫っている人は一人残らず、たとえ五歳であろうと九十五歳であろうと、
死が近いことを知っています。
したがって、問題は「私はその人に、死が迫っていることを告げるべきだろうか」ではなく、
「私には彼の声が聞こえるだろうか」です。
たとえば、患者がこう言ったとします。
「あなたの誕生日はたしか七月だったわね。そのころ、私はもうこの世にはいないのよ」。
もしその言葉をちゃんと受け止めることができたなら、
「そんなことを言ってはいけませんよ。快方に向かっているんですから」
などという、自分をとりつくろうための言葉は出てこないはずです。
そんなことを言ったら、患者とのコミュニケーションが途切れてしまいます。
あなたが、患者の言うことに耳をかたむける準備ができていないということが、
患者にわかってしまうからです。
それで、結局、患者を黙らせてしまうことになり、患者は孤独におちいってしまいます。
もしあなたが死とその過程に関して何を言ったらいいかわからなくなったら、
そして、この女性は死が迫っていることを直感で知っているなと思ったら、
ただそばにすわって、彼女に手を触れ、こんなふうに言ったらいいのです。
「おばあちゃん、なにか私にできることありますか?」。
人から聞いた話ですが、ある若い女性が老いた祖母をたずねました。
老人は自分の指から指輪をはずし、何も言わずに黙ってそれを孫娘に渡しました。
これこそが言葉によらない象徴言語です。
老人は黙って指輪を孫娘の指にはめたのです。
孫娘は、「まあ、おばあちゃん、そんなことしないで。
この指輪、気に入ってるんでしょ。ずっとはめていて」
などとは言いませんでした。
彼女はこう言ったのです。
「本当に私がもらっていいの?」
祖母は黙ってうなずきました。
孫娘はさらに「どうせなら・・・・・・」と言いかけました。
「どうせならもう少し待って、クリスマスにもらえない?」
と言おうとしたのですが、やめました。
彼女ははっと気がついたのです。
祖母は、自分がクリスマスにはもうこの世にいないことを知っているにちがいない、と。
そのおばあさんは、孫娘に指輪を贈ることができて心から満足していました。
彼女はクリスマスの二日前に亡くなりました。
これが言葉によらない象徴言語というものです。
「死ぬ瞬間」と死後の生 P27~28

--中略---

あなたの助けを本当に必要としている人たち、それはショックで感覚が麻痺している人たちです。
彼らは、これまで家庭のおかげで外界の荒波から守られ、
すべてが容易で安楽で、順調な人生を歩んできたために、
人生の荒波に対して心の準備ができていない。
「死ぬ瞬間」と死後の生  P29


常に死を見慣れている医療関係者以外では死にゆく人を前にするとオロオロするのが常だろう。
私も例外ではなく、意識があり、なお且つもうすぐ死にゆく人の前で成す術がなかった苦い思い出がある。

数年前、近くに住む親戚の人から入院している彼の妻に逢って欲しいとの緊急招集の電話があり、
急いでお見舞いに駆け付けた。
主治医から逢わせたい人がいるなら今のうちに・・・と促されての電話連絡だったらしい。
彼の妻(当時57歳)の病気は心臓病であり、2日後にはあっけないほど早く訃報の連絡が来た。

彼女の死因はガンではなかったが、日本人の3割がガンで死ぬ時代である。
それに加えて今現在の放射性物質汚染も追い打ちをかけ、
身体への確率的影響で数年後からは
日本人の5割以上がガンで死ぬ時代が訪れるかもしれない。

主な死因別死亡数の割合(平成22年)
h22

ガンは緩慢な死の過程を辿る。
私たちは今まさに死にゆく人々に対して、
患者自身が己の病状を口にしたときなどには、
「大丈夫よ♪」「快方に向かってるって♪」「頑張って!」
等の善意と思しき励ましの言葉をかけるのが常識とされている。
だが、それは死生学の世界的権威のエリザベス・キューブラー・ロスによると
大いなる勘違いらしい。
健康な人が死にゆく人にかけがちな、よかれと思う励ましの言葉は、
家族といえども人間不信を抱きこそすれ、より良く死ぬためには逆効果になるようだ。

不覚にも私は、本当は土気色の顔色をして骨と皮だけの上記の患者に対し、
「あらぁ、顔色もよくお元気そうね。」
等の心にもない嘘っぱちのお見舞いの言葉を発してしまった。

他の見舞客も同じような言葉をかけていたが、帰り路に考えるに、
もしかして患者自身はすでに死期を悟っていたのではないだろうか?
そして、「誰も私の本心を判ってくれない・・話すだけ無駄ね・・」
と思っていたのだろうか?との思いが脳裏を過ったが、
無知ゆえにそこで思考はストップしてしまった忘れられない思い出がある。
この苦い経験を想うとき、
もうすこし早くこの本を読んでおけば・・と今さらながら思った。

エリザベス・キューブラー・ロスは後には「死への過程」だけではなく、
やがて死後の世界(霊的な事象)にも関心を向けるようになり、
自らを被験者にして幽体離脱の実験したりして、
次第に死後の生(霊的世界)への関心のみに傾倒していった。

彼女が死生学の大家であろうとも、自分の死を経験することはできない。
人は老いとともに、つまり此の世での滞在時間が短くなることを自覚するようになると、
あの世の存在を創りたくなるのだろうか?
彼女の場合は西洋人なので「天国」なのだろうけれど・・・。



私はポスト団塊世代ではあるが、突然死や事故に逢わない限りは、
今後10~30年の多死の時代に私も私の配偶者も死なねばならない。
まだ今の時点では「多分、死んだらおしまい・・」と思っているとはいえ、
老人福祉施設(死にかけ老人が多すぎて入れるかどうかも判らない)
と医療機関と葬祭業者との老いと死による利益追求のためのトリプルタッグによって、
お手盛りの死のベルトコンベアに乗せられるのは安易に想像が付くだけに切なく味気ない。


長年月付き合いのある友人たちの闘病情報や訃報もボツボツ届くようになった昨今、
もうすぐ死にゆく人に遭遇するようなことがあったら、
また逆に私がお見舞いを受ける立場になっても、
少しは相手の気持ちを汲んだ応対ができるような気がする。

死を知らなければ生を知ることはできないと私は思っている。
死から目を背ければ背けるほどより良き生が遠ざかり、
死についてなにも知らないor見ないということこそ限りある生を不幸にするような気がする。

とは思いつつも、所詮、凡人・・・
いざとなれば、そう簡単には己の死も配偶者との永別も想う様には受け容れられずに、
あらゆる手を尽くして延命を願うのだろうか・・。(^_^.)

だが、エリザベス・キューブラー・ロスの唱える「死後の生」があるのならば、
死ぬのは恐怖の対象ではないのかもしれない・・。
とほんの少しだけ思えてきた。


われいまだ死を知らずして死に怯え死を想ひてはまた死を語れり


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テーマ : ひとりごと ジャンル : 日記

tag : 「死ぬ瞬間」と死後の生 象徴言語 エリザベス・キューブラー・ロス 幽体離脱 霊的世界 葬祭業者 死のベルトコンベア

なぜ現代人が「悪魔祓い」を求めるのか?
1970年代に大ヒットした、悪魔に取り憑かれて首が360度回ったり、ブリッジしたりする少女と
キリスト教の神父との壮絶な戦いを描いたオカルト映画「エクソシスト」。
今そのエクソシストの養成をカトリックの総本山であるヴァチカンが急いでいるそうである

P65~67
なぜ、この世から難病はなくならず、なぜ、生命力にあふれた子どもが犠牲になるのか。

なぜ、この世から戦争が消えず、なぜ、無辜の市民が毎日のように殺されるのか。

なぜ、生んだわが子を虐待死させる親がいるのか。

なぜ、津波や地震で多くの人が一瞬にして命を失うのか。

なぜ、無差別に殺人を犯す人がいるのか。なぜ、暴力は消えないのか。

なぜ、世の中にはたくさんの人間がいるというのに、災難は自分に降りかかったのか。

なぜ、こうも眠れない日々が続くのか。



どんな人でも、長い人生で一度は、心の中で発する疑問だろう。
これらの「不条理な悲劇に意味はあるのか」という、
『ヨブ記』とまったく同じ禅問答の回答を得るためには、
「この世とは光と闇の勢力の戦いである」と説く二元論的な信仰を根拠とするほうが、
はるかに容易だ。しかし、キリスト教の教義はあくまで、唯一の神が世界を支配していると説く。
神は全能であり、いつも善なることを望んでいる、と。
長い歴史のなかでいつも、
キリスト教は善悪の闘争で世界を説明しようとする二元論に抗(あらが)う必要があった。
そのために、悪魔は存在し続けた。
つまり、人間が道理に合わない不幸に納得するための理由として、
人類の普遍的な疑問への回答として、悪魔は存在する必要があった。
人々が不安に心を揺さぶられ、「なぜ」という疑問符を発するたびに、
悪魔はその輪郭を与えられてきたのである。

P185
日本人にとっては意外に思えるが、実はイタリアには精神病院はない。
正確にいえば、法律に基づいて消えつつある。
この場合の精神病院とは、精神疾患のある患者の治療・保護を専門に行う、
隔離病棟を含む入院施設をもった病院のことだ。
イタリアで精神病院を禁止する法律が制定されたのは1978年。
制定の理由は、精神病院が非人間的な環境であり、
治療よりむしろ病状の悪化を引き起こし、
さらには社会福祉予算を当て込んだ不正運営の温床となるというものだった。

P201~202
心に病を抱える人にとって、心理学者のもとへ通うことは、
あたかも自分が普通の人間ではないと宣告されるようなものだと教授は分析する。
世間のそんな偏見が患者たちには何よりつらいことで、
エクソシストに「悪魔が憑依していますよ」と言われたほうがずっと気が楽なのだという。
なぜなら、悪魔が憑いていると告げられた瞬間に、
彼らの病は文化的に記録が残っているカテゴリーに分類されるからだ。
悪魔は集団で共有する問題であり、もはや個の過失や弱さではなくなる。
また、聖書が描いたキリストや聖人たちがそうであったように、
キリスト教では悪魔に苛まれることを魂の浄化のための試練だと考える者もいる。
「悪魔憑き」と呼ばれたその瞬間から、
彼らの苦しみは「選ばれた人」たる意義をキリスト教文化のなかでもち始めるのである。



精神のバランスを失った人々に「偏見の入り込まない聖域」を保証し、彼らの苦しみに共同体に
認められるような、何らかの意義を与えること。エクソシズムの効果を、タミーノ教授はそう表現した。




日本には、文化庁の発表によれば、法律で認可されている宗教法人の数は18万を軽く上回り、
神道や仏教の系列下にない宗教法人が年間に平均して100法人ほど新たに生まれ続けているそうである。
どうも、日本は教祖様で溢れているらしい・・。

日本では癒しを求めてのスピリチュアルがブームとなっている。
有り余るほどの物に囲まれていても、それでも満足できずに、
魂のレベルでの癒しまで求め、
自称霊能者、自称ヒーラーにその辺に転がってる石ころを、
御利益のあるヒーリンググッズとして高額で買わされ、
日々崇め奉り、感謝!感謝!を口にしている人も多いらしい。

それだけ、癒しを求める人が多いということだろうが、
自称、神の啓示を授かった者の霊的存在の力にすがる人々の多いことに唖然としつつも、
あまりにも神から啓示を受けたと公言する人が多いことにもなかなか納得がいかない。

ちなみに、ヴァチカン認定の本物のエクソシスト
スピリチュアルカウンセラーも兼務しているが、料金は一円もかからない。

目に見えない世界を全て否定する気はないし、
肉体の苦痛に苛まれ、藁にもすがりたい気持ちも否定はしないけれど、
日本に数多いる霊能力者の手当治療や遠隔ヒーリングで病気が治った、
もしくは楽になれたと思えるのなら、それはそれで結構なのだが、
小さな奇跡を起こせる人として、なぜ口コミで有名にならないのだろう?

私の古い知り合いにも「神の声が聴こえる!」と言っていた人がいた。
後にこの人は統合失調症と診断されたと風の便りで聞いたが、
神の声が聴こえること以外はフツーなので、危ういバランスを保ちながら
今もフツーに暮らしているらしい。
この人の場合の神の声は病気に因る幻覚、妄想であったと思われるが、
このブログにも、「神の声が聴こえるらしい自称救世主」から、
訳のわからない笑えるコメントが来ていた。
好奇心でそのサイトを覗いてみたら、
各種難病及びその他の処置一覧表(税別)に「精神分裂症(統合失調症) 300万円 」
「心筋梗塞(各種心臓病も含む) 800万円」etc.................... と出ていた。
この自称救世主は、人様の病気は治せても、自分の病気は治せないらしい。

朴念仁の私には厳かな神の声は聴こえないが、
加齢に因る更年期症状の耳鳴りはときどき聴こえる。
どういう資格や感性があって初めて神の啓示を受けられるのだろうか?
できるならば、私も耳鳴りよりも神の声を聴いてみたいものである。
精神の病気ではなしに・・・。

君があると言うのならあるのでしょうコンテンツなき神の姿も

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tag : エクソシスト ヴァチカン 禅問答 光と闇の勢力 二元論的 全能 悪魔 精神病院 社会福祉予算

原発を含む現代テクノロジーは累積による誤謬か?
副タイトル:目先の利益と効率ばかりを追うテクノロジー大国日本に警鐘を鳴らす好個の一冊。

を読み始めた。
まだ5分の1程度しか読んでいないが、
第一章:「部分的には正しいが・・・・・・」に、
便利で快適な日常を与えてくれる現代テクノロジーというものが、
自然の前ではいかに脆弱で
一度暴走を始めたら、ようように収めようのない
マックスリスクを抱えたテクノロジーであるという、
今現在の地球の状態とその行方(未来)を連想させ、
また予見しているかのような記述があって、
興味を持って読んでいる。




以下青字は引用


ペンローズの三角形、
英語では不可能な三角形(impossible triangle)とも呼ばれる図形のこの写真を
ご覧になって、どんな感想を抱かれるだろうか。

Impossible-Triangle
恐らく、
どことなく不自然な形だと思われるに違いない。
平面図としてならともかく、立体的な物体として見れば、
三つの角の一つ一つのつながりは不自然ではないのに、
全体としては現実に成り立ち得ない形だということがわかるからだ。
正しいはずの部分を集めると、全体としては間違った結果になる・・・・・・
こういう状態を、難しい言葉では『累積による誤謬』というそうだが、
この奇妙な形を見るたびに、私は、科学技術に頼りきった現代社会を連想する。



今さら改めて書く必要もないほど当然のことだが、
われわれが科学技術つまり自然科学を応用した技術から受けている恩恵は、
計り知れないほど大きいのである。
このことは、どんなに強調してもしすぎることはない。
もし、人類がこのまま安泰に地球上に生き続けていけるのであれば、
進歩した科学技術ほど有りがたいものはないし、
このままどんどん進んで行ってほしい。




ところが、われわれ人類は、
まさにその進歩した科学技術を利用した強大な工業力のために
大きな行き詰まりに直面しかけているのだ。
行き詰まりの原因の第一位は自然環境の破壊によって生存をおびやかされていること。
第二は、自分で作り出した便利で快適だが極めて不自然な生活に、
実は自然の一部にすぎない人類自身が適応できなくなりかけていることである。



ある時点では文句のつけようもないほど便利で無害だと思われた技術が、
便利であればあるほど、
ある時間を経てからとんでもない結果をもたらす危険性があるからだ。
科学技術に頼りきった社会は、空間的ではなく、
時間的にもペンローズの三角形のように
累積の誤謬とやらを次から次へと重ねているらしい。
人間の能力では、残念なことに、
自分の行為がもたらす結果についてほとんど予測できない。



集団としての人間の行為には、気象現象ほどの周期性も規則性もないから、
予測することなどできるはずがないのだが、それにもかかわらず、
中途半端な科学技術の利用によって、地球の運命を変えられるほどの力を、
人類が身につけてしまったから恐ろしいのである。





烏合の衆の私が現代テクノロジーのリスクなどなにも知らずに、
また知ろうともせずに、自然と科学の関係性にも無関心で、
現代テクノロジーにすべて頼りきっている今の生活を改めて考えさせられた。


まだまだ余震が続く中、外出時の注意喚起用として、
docomoのサービスである「緊急速報エリアメール」の設定をしようとしたら、
機種が古くて(2006年発売の機種を2007年にヤフオクで購入した白ロム)
対応していない事が判明・・。

年寄りはモノを大事にするだ~よ。
携帯電話も使い捨てなのかい・・?

電話帳に登録した人以外からの電話には出ないので、
普段は誰からも電話もメールも来ない。
ゆえに使用頻度も少なく、なかなか壊れない。
加えて、年金を満額貰えない老齢年金生活者には
そうそう携帯電話端末の買い替えなどできない。
地震後、なんの役にも立たなかった携帯電話というシロモノ。( 一一)

(地震直後に停電したため固定電話が通じず、
子供が私を心配して送信したメールが24時間後に届いた。)

これも、中途半端な科学技術のひとつなのでありましょうか・・?
110322r
あと一歩助走を足せば翔べるのに篭の小禽は翔ぼうとしない
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Author:千風
気が付けば、シニア.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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