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日本人の死生観はアニミズム信仰のDNAから抜け出せない?・・М様からの「仏教をどうお考えですか」への返答も兼ねています。
北海道のМ様からメールフォームを通して、当ブログの
葬式仏教からの決別宣言には同感の意を表明していただきましたが、
「その昔釈迦が興したといわれる仏教という宗教については
どのようなお考えを持っておられるのか、
何かのついでのときでよろしいですから、
お示しいただければ幸いです。」
との、ご丁寧なお言葉遣いでの真摯なご質問を頂きました。

私は仏教については葬式仏教における死者への儀式程度しか知りませんし
また、仏教史についても、
高校時代に日本史で習った程度の拙い知識しかありません。
それでも最近では歳のせいなのか・・?
「大法輪」という仏教系の雑誌を読みたい特集記事のあるときだけは購入したり、
bible
聖書」「コーラン」「チベット死者の書」も一応は時間をかけて読みましたが、
無知無学の所以でありましょうか、ほとんど理解不可能でありまして、
未だに「仏教を含む宗教とは何ぞや?」に対して私なりの正解は出ていません。


また、今までも仏教について深い思索を重ねたこともなく、
確固たる信仰を持っているわけでもなく、
現在は「人は死ねば無になる、霊や魂は存在しない」
との考え方から抜け出せないでいます。

そういう理由から、拙い知識に因るイメージと直感だけで
私の仏教についての思いを述べさせて頂きます。

私の実家には、私が生まれる以前から古い仏壇があり、
戒名の判読もできないほど色褪せた位牌が仏壇に置かれていました。
私が物心が付いた頃からは母に頼まれて、毎朝、朝炊きたてご飯とお味噌汁と
野菜の煮物やお漬物を仏様に供えるときには、
当たり前のように毎朝仏壇に手を合わせ、南無阿弥陀仏と唱えていました。
ですから、知らず知らずのうちに我が家は仏教徒なのだろうと思っていました。

ところが、今になって遠い記憶を掘り起こしますと、
祖父母も父母も熱心に仏教を信仰している様子でもなく、
お寺に頻繁に行くわけでもなく、
お盆やお彼岸に住職を呼ぶこともありませんでした。
つまり檀家には属しておらず、父が亡くなって初めて、
母が曹洞宗のお寺と檀家契約をしたようです。

今思えば、我が祖父母も父母も敬虔な仏教徒には程遠く、
仏教伝来以前の日本人に古代から連綿と続く、
アニミズム信仰(生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、
もしくは霊が宿っているという考え方)
でしかなかったのだと思えてならないのです。


そして、ここからは、私の仏教に対する思いを、
代弁してくださっているかのような
日本の著名な宗教学者の山折哲雄氏の
著書「地獄と浄土」から一部を引用させていただきます。

ご周知のように、日本人の間に今日も色濃く存在し、
しかも大きな影響力を持っている信仰として祖先崇拝があります。
この祖先崇拝というのは必ずしも普遍的な信仰形態ではなくて、
たとえば世界の文明国家のそれと比較しても考えてみましても、
ヨーロッパ世界におきましては、はるか昔のローマ時代を最下限として、
この祖先崇拝というものはすでに消滅している。ところがこれに対して、
アジアにおいては、祖先崇拝は非常に根強く伝承せられているのですが、
そのなかでも特に日本の祖先崇拝は、その細密な儀礼体系からいっても、
また共同体と深く結びついたあり方からいっても
ある意味で世界に冠たる文化的特徴を
示しているのではないかと思えるほどであります。
 



そういう祖先崇拝の根底には必ずその民族や社会に
特有の霊魂観というものが潜んでいると思うのです。
とすれば、日本に仏教が輸入される以前の日本の社会、
あるいは日本人にとりまして、
いったい人間の霊魂というものはどのように
とらえられていたのかという問題がでてくるわけであります。
端的に申しますと、肉体と霊魂というものは
分離したり結合したりするのだという観念が非常に強くあったと思います。
これは「万葉集」をはじめ「古事記」「日本書紀」などに、
色濃く現れている思想でありまして、
いわば遊離魂に関する問題であります。



いずれにしても記紀・万葉の古い時代におきましては、
日本人に固有の霊魂観のなかに、霊魂と肉体は分離したり、
結合したりするのだという考え方が、
重要な前提としてあったのだと思うのです。

ところが、そういう日本人の霊魂観のなかに仏教の思想が入ってまいりますと、
当然大きな変化が起こるはずであります。
と申しますのは、仏教は言うまでもなく霊魂の存在を、
建て前として認めておりません。
釈尊の教えによりますと、
霊魂があるかないかという問題を単に形而上学的にのみ議論するな、
という意味のことを言っている。
釈尊はけっして、そもそも霊魂は存在しないのだとは
言っておらないのですけれども、
とにかく存在するかしないかということを
いくら議論してもこれは結論は出てこない。
結論が出てこない問題に執着するのは本来の仏教の立場ではない。
こういう見解だろうと思います。
しかしとにかくそういう霊魂というものを建て前として
正面から認めていないのが仏教の根本的な立場であります。
とすれば、そういう霊魂を認めない思想としての仏教が日本に移植されますと、
それ以前から日本人が生活の根底に強く持っていたところの、
今述べましたような霊魂観と、それは激しくぶつかり合うことになる。
異質の文化の衝突が発生するわけでありますが、
そこでは当然日本人の固有の霊魂観も変わってこざるを得ないし、
同時にインドから中国を経て伝来してきた仏教の固有の思想も、
これまたそういう日本の風土において、
その霊魂観とぶつかり合うことを通して変化せざるを得ません。


阿弥陀仏のような超越的な仏が行者の前やわれわれの前に現れてくるのは、
現実のこととしてあり得ない。具体的なこの実在の世界、
現実の世界に阿弥陀仏が近づいてくるということはあり得ないわけです。
現実的には絶対にあり得ないそういうことが、
どうして可能かというと、
夢のごとくに現れてくる。そして夢のごとくに仏と邂逅できる、
というのであります。
ところでこのような考え方がさらに徹底しますと、
われわれの心身が浄められた時、そこに仏が宿る、
映発するという考え方が出てまいります。
仏は外部にあるのではない、われわれの心身の中に内在するのである。
あるいはわれわれの心そのもののなかに存在している。
それはわれわれの外部に超越しているのではない。
われわれの心と身体の統合体のなかに潜在している。
ただ問題なのは、それが実際にわれわれのうちに現れてくるか、
現れてこないかということである。
それでは現れてくるためにはどうしたらいいのか。
そこから、自分の心、全体としての心身の活動を浄化するほかに
方法はないという態度が出てくるわけです。
そしてこのような考え方は、実はインドにおける仏教の発展のなかで、
ずっと古い以前から言われてきたことです。
心が清浄であれば、そこに浄土が自然に現れる、宿るという考え方は、
インド以来伝統的な考え方なのであります。
それを、日常的な経験世界における心理的な事象に結びつけて考えたところに、
この「如想念」という宗教思想の独自性があると私は思うのです。


現代の日本社会は明らか「地獄嫌い浄土好き」の傾向を示しはじめている。
この高齢化社会にあって安楽のうちに死を迎えたいという願望が
うなぎのぼりに高まっているためなのだろう。
癒しという言葉が流行っているのもおそらくはそのためだ。
誰でも地獄のイメージの中で癒されたいとは思っていない。
癒し願望というのは、要するに現実世界を浄土に見立てて、
その中で自己を回復し開放しようとする切実な思いのことなのであろう。


Aなるものは、そもそも存在するのか。
単純な設問である。
それに対する応答の第一はAは存在する、である。
これを有の立場という。
第二のパターンはいうまでもなく、
Aは存在しない、であろう。
これを無の立場という。
そして第三に、Aは存在するのでもなく存在しないのでもない、がくる。
これを非有非無の立場という。



神話や絵画や文学に登場する数多くの地獄の描写は、
一面では永遠を祈求する人間の裏返しにされた意識を表していますが、
他面では醜なるもの、グロテスクなものに対する
切実な関心とコンプレックスを含んでいます。
美の中に醜を見、醜の中に戦慄を嗅ぎわけようとする快感に、
それは似ていないでしょうか。
われわれの心のうちに潜んでいる悪意や殺意や怖れの感情は、
美や極楽の世界ではけっして安定しないのであって、
醜と戦慄の万華鏡のなかではじめて鎮静することができるという洞察が、
東西の地獄学の系譜のうちには底流しているようであります。
引用ここまで----


引用による前置きが長くなりましたが、
他宗教ながら、イエスの逮捕時に逃亡した若者がいる。
墓でイエスの復活を告げる若者は果たして同一人物なのか?
という本も出版されています。

果たして釈迦も実在の人物だったかどうかは疑問の残るところですが、
日本の仏教各宗派による経典の解釈の違いは無視するとして、
私は釈迦は宗教家ではなく、鋭い洞察力と直感力を持ち合わせた
偉大な思想家だと捉えています。


また、釈迦が興したといわれる仏教という宗教ですが、
釈迦が本当に説いた教典が存在しているのかどうかは私ごときには分かりませんし、
一方、現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、
「釈迦は輪廻説を前提としておらず、
インドに古代から信じられて半ば常識化していた輪廻を
直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」
と主張する者も少なくないそうです。

如何様にでも解釈は自由ですので、
本来の釈迦の教えは歪曲されている可能性も否定はできません。

また、アンブローズ・ビアスは悪魔の辞典の中で、
宗教とは「希望」と「恐怖」の間に生まれた娘で、
「無知」に向かって不可知の性質を説明する。
お前さんや、お前さんの宗教はなんじゃな」リームズの大司教がたずねた。
「お赦しください、大司教様」ロッチェブリアントは答えた。
「お恥ずかしい次第です」
「では、なんで無神論者にならんのかな」
「そんなことはとても。無神論なんて滅相もない」
「それならばじゃ、プロテスタントになるがよいぞ」

他にも劇作家の別役実氏は「当世悪魔の辞典」の中で
宗教とは「結婚式と葬式のためのドラマツルギー」
マルクスは「宗教は民衆の阿片である。」
     「神が人を創ったのではない。人が神を作ったのだ」
レーニンは「宗教は毒酒である。」
ニーチェは「キリスト教は弱者の宗教であり負け犬の遠吠えでしかない」
と簡単に切り捨てています。




M様は「墓の掃除をし、燈明と線香をたき静まり返った
静寂の中で手を合わせしばし墓前に佇づんでいると、
思いかけず心が澄み渡り悠久の時の流れと空間を感じます。
大げさに言えばこれがもしや仏国土とやらを垣間見ているのかも、
と思ったりします。この墓参のときのこの感覚がとても好きです。」
また「仏教という宗教は線香臭いことを抜きにすれば
ひとつの宇宙観を持った宗教であるといえます。」
と述べられています。

確かにM様がご指摘のように、宇宙は全体として、ひとつの生命体です。
そして、仏教の教えの基本は、この世に偶然に起こることは何もない、
すべての原因を変えることでより良い結果を生み出さなくてはならない、
仏教ではこれはカルマの法則と呼び、
現代科学では原因と結果の法則と呼ばれています。

M様のように心身の浄化のために日々精進され、
そして癒され、心が安寧をお感じになるのでしたら、
私のような不信心者には到達し得ない境地であるところの
全体としてひとつの生命体である宇宙そのものになる神秘体験を得る能力を
会得されたのではないでしょうか。

それとも・・・私の想像でしかありませんが、
もしかして、お釈迦様とご先祖様の霊に
ご加護される域に到達なされたのかもしれません・・。
その根拠としては、
脳の側頭部の深い場所には神の領域と言われる部位があるそうです。
この部位の神がかりな体験は理性をも制圧し、
恍惚感及び神仏との一体感と思しき確信をもたらすそうです。



例え、イエスも釈迦が架空の人物であろうとも、
私は思想家としてのイエスと釈迦の思想=教えそのものを
否定するつもりは毛頭ありません。

生まれも育ちも日本である私のDNAには、
古来よりのアニミズム信仰がどこかに存在していると思っています。
それに、信仰問題は別にしても、
日本人である私には仏教が一番しっくりくることだけは確かです。

とは言いましても、来世があるかどうかについては今現在は、
超ひも理論による来世という異次元界は存在しない・・
と考えておりますが、もし、今後、命に関わる大病に罹り、
ホスピスに入るようなことがあったら、
来世を信じるかもしれません。
また、そのホスピスがキリスト教系だったら、
あるかないかも解らない天国に行きたいがために、
取引として迷わずに洗礼を受けるかもしれません・・。

チベットの死者の書が言ふ中有(バルドゥ)は己の生前の生き方に在りと
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tag : 聖書 コーラン チベット死者の書 アニミズム信仰 山折哲雄 カルマの法則

神も仏も霊魂も聖霊も個々人の側頭葉に存在する。
巷では大型連休だそうだが、私などは死ぬまで連休が続く予定なので、
今しかない!と何処かへ出かける気力も経済的余裕もないので、
家の周りの草むしりなどをして、その後に玄関前の道路を掃除していたら、
お上品そうなマダムの2人連れが私の前で足を止めた。

ははん、エホバちゃんの布教活動ね。と服装とバッグの大きさで直ぐ判る。
目を合わせないようにして、知らんぷりをして掃除を続けていたら、
やっぱり・・「こんにちは~。」と声をかけてきた。
しかたなしに私も「こんにちは。」と返事をしたら、
案の定、「先の大震災や世界情勢についてどう思われますか?
あなたは今幸せですか?
今の政治の混迷についてどう思われますか?」
等々を矢継ぎ早に訊いてきた。

まったく知らない人に、また布教が目的の人に、
今現在、私が幸せかどうかなどのスピルチュアル的個人情報を
教える必要などは無いので、半分本音、半分冗談で、
「そうね。どちらかと言うと精神的にも肉体的にも経済的にも不幸のどん底かしらね。」
と答えたら、彼女たちの目がキラリと輝き、
「それはそれはお気の毒に・・・私たちは幸せになれる方法を知っています。
少しお話させてください。」と言う。

普段は、インターフォン越しに、
「今日は神様の御用聞きは間に合ってます。」と断るのだが、
世間では邪教だのカルトだのと言われている彼女たちの信仰の世界とはどんなものなのだろう?と、
束の間の暇つぶしを兼ねて、普段から疑問に思っていたエホバの証人の「聖書の解釈」に付いて、
いささか子どもじみた質問をしてみた。



本当に神は全知全能なの?


もちろん全知全能の力をお持ちです。


神が全知全能ならば、なぜ、東日本大震災と福島第一原発の事故を止めなかったの?
世界各地での戦争や紛争もなぜ辞めさせないの?
特にパレスチナ問題よ。
イスラム教もキリスト教も元は同じ神なのに、なぜ今だに全知全能の力でなんとかしないの?

A 
神は地上の個々の出来事には関知しない方針なのです。


この世には関知も関与もして欲しいことがたくさんあるのに、
知らんぷりしているなんて、神様ってずいぶんと意地悪なのね。


神はアダムとイヴを創造して以来、人間の自由意思を尊重しているのです。


人間はすべてアダムとイヴの子孫だと言うけれど、
なぜ、神はエデンの園に知恵の樹を植えてその実をイヴに食べさせたの?
神が全知全能なら、最初から知恵の樹を植えないで、
サタンの化身と解釈されている蛇を使ってイヴに食べさせるような行為をさせなければ、
人間は愛と善だけで永久に幸せに暮らせたのに・・と思わない。


それも・・神が人間に自由意思という素晴らしい能力をお与えになったのです


それは計画の上で?それともただの気まぐれ?それとも単なる戯れ?


すべては神の計画です。


神様って、ほんと底意地が悪いわね。
聖書ってユダヤ教の神話なんじゃないの?
例えば、ギリシア神話や日本のアマテラス神話のような・・。


いいえ、決してそんなことはありません。
聖書に書かれていることはすべて、正真正銘の神の御言葉です。
そして、この世に蔓延する諸々の悪はすべて、
この地上に降りたサタンのせいなのです。


えっ?サタン?
サタンって、地上にいるの?それだったら、人間の目には見えるの?
それで、普段はどこにいるの?


サタンはこの地上の人間界にいます。


それじゃあ、人間になり済ましているということなの?


そうです。サタンの多くは政治家という人間になり済ましています。


えええっ?ということは、政治家の多くはサタン軍団なの?


そうです。彼らが神に反抗して、この地上に悪を蔓延らしているのです。


へぇ~ そうなの~
サタンが多くの政治家になり済ましているなんて話は初めて聞いたわ。
それじゃあ、今の総理の野田○○さんが、
今の日本のサタンの統領なの?
でも、そのサタンを投票で選ぶ有権者の立場はどうなるの?
サタンに操られているおバカなの?

A
簡単に言えば、そういうことになります。


それじゃあ、あなた方も創価学会や幸福の科学みたいに政治に打って出て、
エホバ様の神通力とあなた方の団結力で、サタン軍団を一掃したらいかが?
あ・・・でも、神は地上の個々の出来事には関知しなかったんだわね。
ということは神は知っててサタンを野放しにしているのよねぇ。
神様って、なんて無慈悲で底意地が悪いのかしら?
そう思わない?


わたしたちエホバの証人は政治的活動は一切しません。
あくまでも政治姿勢は厳正中立的な立場を取ることにしています。


あらま!それじゃあ、あなた方の神様はサタンの存在を認めていながら、
人間の不幸を見て見ぬ振りをしていることと同じじゃない。
それに、勝手に人間を創造して、自由意思を理由にほったらかしておくなんて、
神様なんて無責任で、ぐうたらで、おまけに自分の仕事をズルしてるってことよね?
まるで永遠の無責任男(?)みたいじゃない?


神は無責任ではありませんし、それに絶対にズルなどしておりません!


ところで聖書は誰が書いたの?


聖書は神が秘書たちに命じて書かせました。


秘書たちって天使のこと?


判り易く、人間界に例えて言えば、
社長(神)が秘書(人間)に書かせたということになります。


神は何もないところから宇宙や人間を創造できる能力があるのに、
どうして神自身が書かなかったの?
それに身近に天使がいるのに、
どうして、なぜ、わざわざ人間なんかに書かせたの?


神とみ使い(天使)の能力と神の意思は別物です。


神様って、全知全能の割にはご都合主義なのね。


神には人間には判らない思いがおありなのです。


さよですか・・・。
ところで、聖書は大勢の秘書(人間)に書かせたのなら、
その人の主観が入る可能性もあるから、
聖書は100%神の言葉とは言えないわよね。


いいえ、聖書は100%、神の御言葉です。


証明できるの?


聖書を繰り返し読めば判ります。

Q
千年単位で何人もの人間によって書き継がれてきた訳だから、
きっと原本とは違う内容になってるわよねぇ。

A
そんなことはありません。
正真正銘聖書は神の御言葉ですっ!


ところで、創造主は今何処にいるの?


天にいらっしゃいます。


天は広いけど、方角は?浄土のあるらしい西方?


神には形はありませんので居場所は判りません。


神には形がないって・・もしかして透明人間風なのかしら?
それとも、霊魂のようなもの?


判り易く言えば、意思ある聖霊として存在していらっしゃいます。


神って意思のある聖霊なの?私にはイメージすらできない存在だけど、
あなたはその聖霊の意思を感覚的に感じたことはあるの?


残念ながらありませんが、神の存在は聖書に書かれていて、
わたしは100%正しいと思っていますので、
わたしは今も今後も聖書を信じて神の僕(しもべ)として生きるだけです。


「神様は意思のある聖霊」ということは判ったけど、
神の御子であらせられるイエス・キリストは今どこにいるの?


今現在は天国の王として君臨なさっています。


天国はどこにあるの?


天です。


だから天のどの辺なの?西方浄土辺り?


生身の人間には知覚できない場所です。



そうなの。西の方角ということも有り得るわけね。
イエスは死んだ人を生き返らせたりとかの奇跡を起こすことができる超能力者なのに、
なぜ、苦痛に満ちた磔刑に甘んじたの?
なぜ、超能力で奇跡を起こして苦痛から逃げなかったの?


よく訊いてくださいました。その理由は贖い(あがない)のためなのです。

(※ 新約聖書ではキリストの死によって、人間の罪が赦され、
神との正しい関係に入ることを示した。wikipedia)


それは神に選ばれた民であるイスラエル人、
つまりユダヤ教の人々のためだけの贖いじゃあないの?
八百万の神々が存在するこの極東の島国の日本人には当て嵌まらないんじゃないの?


いいえ、この地上の人間全員のためです。


そうなの。ずいぶんと慈悲深い御子様なのねぇ。
じゃあ、私もイエス様に贖いされる側に入ってたの?
私はおろか、私の知り得る限りのご先祖様もそのときはまだ生まれてなかったけど。


オーホッホ。イエス様は過去現在未来を超越されていますので、
時間による制約などは無いのです。


さよですか・・・。私の頭じゃよく判らないけど
まるで、時間と空間を超越した地球外知的生命体が出てくる
SF映画みたいな話なのねぇ。
ところで、ハルマゲドンはいつ来るの?


もう来ています。1914年に始まっています。
地上の人間の14万4千人は天国に行き、
残りの人々は地上の楽園=千年王国で永遠に幸せに暮らすのです。


えええっ?もう終末に向かっているの?
それじゃあ、その最終日はいつなの?


確定的な日時は聖書には書かれていません。


なあんだ、じゃあ、明日かもしれないし、千年後かもしれないってことよね。
ところで、あなたは天の国に行ける選ばれた14万4千人に入ってるの?


最終日は判りませんが、
わたしは14万4千人の中には入っていないと思います。


あら残念ね。あなたの貴重な時間を使って、
こうやって、一軒一軒回って神の宣伝をしてあげてるのに
イエス・キリストが王として君臨している天の国に行かせてもらえないなんて、
神様って、なんてクソ底意地が悪いのかしらね。
キリスト教徒だったら、絶対本物のイエス・キリストを見たいでしょうねぇ?
私は聖書は読むけどクリスチャンじゃないから、
地上の楽園にも呼ばれないし、
イエス様が王様として存在している天の国にも行けないわね。

そうね・・・できれば私がこの世に生きている間に
ハルマゲドンの最終日をこの目で見てみたいものだわ。
ところで、気になることがあるんだけど、
人は死んだらどうなるの?
魂は天国に行くの?それとも全てが無になるの?


そうですね・・。
ハルマゲドンの最終日については今はなんとも申し上げられませんが、
エホバを信じない大多数の人間は無になります。
でも必ずその日は来ます。
もし聖書をお持ちでしたら、是非お読みください。
答えが見つかるはずですから。


こんな私でも、一応は口語訳の聖書は持ってて、
睡眠薬変わりに読むことがあるのよ。
それでね。あなた方の神様の名前なんだけど、なぜエホバと呼ぶの?
神の本当の名前は「ねたみ」と言うんじゃないの?
世間では主だとか神だとかヤハウェだとか言ってるけど、
口語訳聖書の出エジプト記の34の14には、

「あなたは他の神を拝んではならない。
主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。」


と書いてあって、凡人の私ですら、ものすごく印象に残ってるのよ。
もし、本当に聖書を信じているのなら、
だから、あなた方は本当は「エホバの証人」ではなくて、
「ジェラシーの証人」と名乗るのが正しい解釈じゃないの?
ちなみに新共同訳聖書では『熱情の神』となってるらしいわよ。
それに、私などはこの歳まで、
神社へもお寺へも数えきれないほど行って柏手を打ったり、
道端のお地蔵さんにも手を合わせたり、初日の出も拝み、
お葬式なんかでは、全部が仏教式だったから、焼香の度に
南無阿弥陀仏を何回唱えたかしれないわ。
ということは、一神教の考え方からすれば、
私は意識しないで偶像崇拝をしているおバカちゃんだし、
今後も多分、仏式のお葬式が続く予定だから、
きっと、キリスト教系の神からは、
信じる、信じない以前の問題外として、
ゼパニア書に書かれているように、
「糞土」のように処理されることになるわね。

だけど、神様の本名が『ねたみ』だなんてねぇ。(ーー゛)
永遠の存在で、全知全能ならば、
「ねたみ心」なんて湧かないと思うんだけど、
誰に、何に嫉妬しているのかしら?
まさか、たかだか80年ぐらいしか生きられない
ご自分が創造した不完全な人間になのかしら?
だって、永遠なる不死状態って飽きるらしいじゃない?





こんなバァサンとは話にならん!とでも思ったのか、
これ以後は彼女たちの答えは無かった。


最後に、
「もっともっと、聖書を読み込むことをお勧めします。
読み込めば読み込むほど、
あなたの疑問への正しい答えが導かれると思いますよ。
今日は長々お話を聞いてくださってありがとうございました。
それに、とても楽しく有意義なご意見を聞かせて頂きました。
また来ます。」

と言って、帰って行かれましたとさ。
私としてはもう二度と来て欲しくはないわよ。



私の子どもじみた質問に答える度に彼女たちがバッグから出して確認していた
「新世界訳聖書」は、
私がときどき読んでいる口語訳聖書とは解釈が少し違うらしい。


当たり前の話として、キリスト教系の新興宗教に限らず、
仏教系でも組織化されると、
自分たちの都合の良いように解釈された教義が作り出される。
所詮、神の存在や預言と言われるものは、
キリスト教系宗教団体においては、
国や訳者や個々人の聖書の解釈の違いでどうとでもなるのが、
世界的ベストセラーである聖書の真実なのでありましょうか。

信教の自由は認められている。
ゆえに、歪めらて解釈されていようが、都合よく解釈されてようが、
どのように書かれた聖書でも、私は否定するつもりは無い。
ただ、数多の犠牲者を出した東日本大震災以降、
エホバの布教が活発化していて、
彼らの根本教義である終末論を利用している感は否めない。

ちなみに、インターネットの世界では「エホバ」で検索すると、
あなた方のことを快く書いてあるサイトは皆無であるが、どう思うか?
と問うと、
「あら、そうなんですか。私たちはそういうサイトは一切見ませんので・・」
という答えが返ってきた。
信仰対象に対しての都合の悪い部分は
「見ざる、言わざる、聞かざる」らしい。
考えようによっては、自分の意思で生きるよりも、
聖書の中の神の意思で生きるほうが、
楽な生き方かもしれない。
神の命の長さは永遠らしいが、
人間の命の長さは、
運が良くてもたかだか70年から90年ぐらいでしかない。
それならば、人間の儚い生の時間は自分の意思で生き、
来世(あるのならば)は神の時間に魂を委ねるほうが、
今のこの現世での後悔が少ないように思える。

帰依心もなく、如何なる宗教への信仰心の欠片も無い私からみれば、
布教目的のランダムな戸別訪問は、
盲信とも思える強い信仰に裏打ちされた彼女たちの仕事とはいえ、
たった一度、「神の存在」ついて他愛のない話をしたからって、
その後は3日を置かずに布教に来るのは、尋常ではない行為だと思う。
見た目は身だしなみも良く、清潔感が漂い、また礼儀正しい言葉使いなので、
話をしていて不快にはならないが、訪問目的と話の中身は別問題である。
私には、彼女たちが、自分の意思よりも、また普遍的な聖書よりも、
自分たちに都合の良いように解釈した指導部の教義だけを崇拝し、
聖書の中の神の計画とやらに踊らされている、
機械仕掛けの布教ロボットor布教兼集金奴隷のようにしか見えないのである。



「どっちなんだ?人間が神の失敗作なのか、それとも神が人間の失敗作なのか」

「信仰とは真実を知りたくないという意味である」

               By フリードリヒ・ニーチェ



個々人の脳に宿りし神なれば我は死ぬまで異教徒なりし
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テーマ : ひとりごと ジャンル : 日記

tag : エホバ 大震災 スピルチュアル 聖書 邪教 カルト 全知全能 ギリシア神話 アマテラス神話 御言葉

「無常教」という宗教に生きる日本人
先日、切り取っておいた、漫画家・いがらしみきお氏の「許して前を向く日本人
副題・・大震災で見た「神様のない宗教」(2011.6.7asahi)をじっくりと読んでみた。
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鰯の頭も信心から・・。
と言われているように、何かを神に例えてそれを神と崇め、信じるのはそれぞれの自由ではあるが・・
信仰心の欠片もない私。ゆるゆるにボケた頭ではあるけれど、
私も「神様のない宗教」について考えてみた。

3.11の大地震による大津波、そのことは大規模な自然現象の一端であり、
多くの人の命を奪っていったことも、多くの家々が倒壊したことも、神の意思によるものではない。

日本人は農耕民族であるがゆえに、
古来より浪々と崇拝し続けてきた神の概念(超自然的な存在への畏敬の念)が存在する。
各地で行われる春祭り、夏祭り、秋祭りという行事があるが、
Wikipediaに因ると、「まつり」は、超自然的存在への様式化された行為である。
祈願、感謝、謝罪、崇敬、帰依、服従の意思を伝え、意義を確認するために行われた。
とある。

日本では、時の為政者の思惑で形を変え、
また都合よく歪められた宗教(ほとんどが仏教の各宗派)が強引に創られ、
平民は強制的に檀家制度に組み入れられた。そのなごりは今も根強く残っていて、
檀家でもないのに葬儀と言えば仏式で執り行われることが多い。



中世のカトリック異端審判所の記述などを読むと、
カトリック教徒でもカトリックの教理と少しでも違うことを唱えれば、
魔女狩りに代表されるように、即、火あぶり等の公開処刑になったそうである。
日本侵略の為のスパイ兼布教者として送り込まれた宣教師も、
隠れキリシタンと呼ばれる人々の布教成功のみで、その活動は終わりを告げた。

絶対的な創造主という概念が存在していない日本では、絶対主の観念は受け入れ難く、
そのことを上手く利用した徳川幕府(異教徒は残酷な宗教だと知っていた)により、
日本にとっては残酷極まりない異教徒キリスト教の侵入を鎖国と言う制度で水際で食い止めたのである。
結局、日本には各宗派に枝分かれした仏教以外の唯一神を崇める異教徒は根付かなかった。
それゆえ、絶対神に対する畏怖の念は存在せず、八百万の神という、収拾の付かないほどの神様が溢れ、
そのときの都合に因って、単なる気休めとして神を使い分けをしている。


それに、日本には新興宗教の信者は別にして、
キリスト教原理主義者やイスラム教原理主義者のような過激で狂信的な仏教原理主義者
存在することはするが、表に出てくることは先ずない。
アメリカではキリスト教原理主義者たちが、子供を学校にも行かさないで、
ジーザス・キャンプなるところに押し込んで、
進化論を否定し、リーダーと呼ばれる人たちが、
自分たちに都合よく歪めた絶対主の教えのみを叩きこみ洗脳し、
大統領選までもが福音派と言われる人々に左右されるという現実がある。


キリスト教とイスラム教間の宗教戦争に名を借りた聖戦で、
権力欲にしがみ付く者と拝金主義者たちの、神を利用した行為で、
今まで数多の人々がが犠牲になったのか私には見当もつかない。
愚かな人間がジャスティス(実は自国のエネルギー資源確保の為の方便)を振りかざすには、
絶対神の存在とは、為政者にはなんとも都合のいい神様なのだろう。

そこには民を思い、不朽の愛を公平に与える絶対神など、どこにも存在しない。

神に化けたルシファー(サタンに魂を売ったことさえ気づかない邪悪な人間)の群れが、
善良な指導者の仮面を被り、甘事を囁きながら、民を苦しめてその苦痛を見て快楽を覚えながら、
偉大なる指導者として君臨している。
無辜の民は、善良であることを自負しているがために、
それらの人々の甘事を信じて、また騙されていても、
そのテクニックの裏に隠された事実や巧妙さに気づくことはなく、
そしてまた民主主義という餌に食らいつき、再び同じことを繰り返す。

日本には絶対主の存在は無きに等しいが、
日本に於いては、別な形で同じことが行われている。




ずいぶん話が逸れちゃったけど・・(^_^.)



交通事故や犯罪に巻き込まれたのならいざ知らず、自然災害死では怨んでも怒っても、
相手が応えてくれるわけでもなし・・それに壮大過ぎて怨みの対象としても歯が立たない。
災害死では、今は悲しくても辛くても、
自分が向き合ってしまった現実と折り合いを付けるしかないという、
日本人独特の無常感を心の拠り所にして、
逆境にあっても前を向いて生きる姿勢が芽生えてくるのだろう・・。

そこには絶対唯一の神の存在は影も形も見えず、
かけがえのない人々失ってしまった喪失の区切りと供養としての
宗派を超えた仏教の宗教者による祈り(経文)で死者に別れを告げるシーンしか見えてこない。
普段は敬虔な仏教徒でないにも関わらず・・・。

震災でかけがえのない人々を失くした方々は生涯に渡って喪失感を抱えて生きてゆくのだろうが、
それでも、人と人との繋がりにおいては、自責の念は覚えても神を特定して恨むことはしない。
日本人は意識の底に連綿と受け継がれてきた
無常教という宗教」に生きる民族ではないのか・・と思った。
神などというものは初めから存在しないということを既に知っていたかのように・・。
110625r
神様が居るが居まいが人間は人を赦して人として生く
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tag : 許して前を向く日本人 神様のない宗教 無常教という宗教 カトリック異端審判所 魔女狩り スパイ兼布教者 宣教師 隠れキリシタン ジーザス・キャンプ 仏教原理主義者

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Author:千風
気が付けば、シニア.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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