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「神武天皇の偉業」「天壌無窮の神勅」――。安倍政権の閣僚や自民党議員から神話由来の発言が飛び出す。何の兆候なのか。


「神武天皇の偉業」「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の
神勅(しんちょく)」――。
安倍政権の閣僚や自民党議員から神話由来の発言が飛び出す。
何の兆候なのか。
宗教と社会のかかわりを見つめてきた島薗進さんは、
戦前・戦中、全体主義へと突き進んだ日本を下支えした
宗教ナショナリズムの再来を見てとる。
政治と宗教の接近をどう考えるべきか、話を聞いた。


 ――今年の初め、安倍晋三首相は閣僚らと伊勢神宮に参拝しました。
歴代首相の恒例行事となっています。民進党の蓮舫代表も参拝しました。

 「東京裁判でA級戦犯とされた戦争指導者が合祀(ごうし)されている
靖国神社への首相らの参拝は大きく報道されますが、
伊勢参拝にはほとんど関心が払われていません」

 「しかも、靖国参拝では中国や韓国の反応ばかりが報じられ、
もっぱら外交問題としてとらえられているようです。
首相らの参拝は憲法が定める政府と宗教の分離との兼ね合いで
問題はないのかという点が、見過ごされてきました」

 ――首相らの伊勢神宮参拝は、一般の『お伊勢参り』
の感覚で受け止められがちです。

 「まず、伊勢神宮がどんな場所か、
幕末、明治維新にさかのぼって考えましょう。
幕府を倒し近代国家を立ち上げるため、国を統合する柱が必要とされました。
そこで浮上したのが尊皇思想です。
古代の祭政一致が日本本来の制度であり、そこに立ち返る。
また、日本は『天孫』(天照大神の孫であるニニギノミコト)以来の
『万世一系』の天皇中心の国家だとする『国体』理念が掲げられました。
天照大神をまつるのが伊勢神宮です。明治政府は1871(明治4)年、
人々の生活に密着した神祇(じんぎ)信仰を神聖な帝国の
信仰体系に変える政策をとったのです」

 「神聖な天皇が国家の中心だという『国家神道』の精神はやがて、
個人の生活や習慣、考え方にまで及んでいきます。
『臣民』である国民に天皇への忠義を教える聖典となった
教育勅語が大きな役割を果たし、
日本は全体主義への道を突き進みました。
伊勢神宮が国家神道の中心施設だった歴史を忘れるべきではありません」

     ■     ■

 ――2013年の伊勢神宮の式年遷宮の際、
安倍首相は「遷御の儀」に参列しました。
現職首相の参列は、1929年の浜口雄幸首相以来でした。

 「神道で国家行事を行うようなもので、
憲法が定める政教分離に照らして大きな疑問のある行為です。
16年のG7サミットも伊勢志摩で行い、伊勢神宮で、
通常は入れず正式な参拝の場である『御垣内(みかきうち)』
に各国の首脳を導いています。
外交行事に特定宗教を持ち込んだという疑念がぬぐえません」

 ――安倍政権の閣僚の多数は、
神社本庁が中心となって作った神道政治連盟(神政連)や、
日本会議の国会議員懇談会に属していますね。

 「神政連と日本会議に共通する特徴は、
戦前の天皇中心の国のあり方をよしとし、それを支える
『神権的国体論』を日本の誇るべき伝統だと考えていることです。
これは、他国に例のない万世一系の神聖な王朝が続き、
さかのぼると神に至るすぐれた国柄である、という考え方です。
2000年、当時の森喜朗首相が『日本は天皇中心の神の国』と
発言して批判を浴びましたが、
この発言はこれらの団体の主張と重なります」

 「神政連は、政教分離を定めた憲法20条3項の削除も主張しています。
政権中枢にいる多くの政治家たちがこれらの団体に
所属していること自体が、大きな問題なのです」

     ■     ■

 ――昨年11月、「明治の日」実現を求める集会で稲田朋美防衛相が
「神武天皇の偉業に立ち戻り、
日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。
その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」と発言し、驚きました。
稲田氏は二つの団体と関わりが深い政治家です。

 「神武天皇は初代天皇として、軍事的な
『偉業』を遂げて神としてまつられている神話上の人物です。
『国家神道を取り戻すために頑張る』と言っているようなもので、
日本会議や神政連の影響力が強まっているのではないか」

 「全体主義化が進んだ1930年代を思い起こさせます。
明治憲法の体制は、西欧から輸入した近代立憲主義と、
神権的国体論という二つの緊張関係にある理念を内包していました。
やがて、神権的国体論にのみ込まれるようなかたちで、
立憲主義は息の根を止められてしまいました」

 「決定的にしたのが35年の『天皇機関説事件』です。
統治権は法人である国家にあり、
天皇もその機関にすぎないという憲法学説が
『国体に反する』と右翼や軍部の攻撃を受け、
機関説を唱えた東大教授の美濃部達吉は公職を追われ、
著書は発禁となりました」

 ――戦後にできた憲法はその神権的国体論を否定し、
日本は再出発したのではないでしょうか。

 「ところが、社会からは消えることなく残りました。
日本会議や神政連にみられる、神権的国体論を尊ぶ思想は、
今の政権とつながっています。
戦後も長く社会の底でくすぶっていた立憲主義と神権的国体論の対立が、
表に現れてきたのです」

 「危機にあるのが立憲主義です。2012年末に現政権ができて以降、
憲法改正に必要な条件を緩めようとしたり、
憲法9条の下では認められないとしてきた集団的自衛権の行使を可能にする
安全保障法制を強引に成立させたりする行為が積み重なってきました」

 「国家神道の復興に向けた動きは、憲法が保障する
信教の自由や思想・信条の自由を脅かすことになりかねません」

 ――日本がとる政教分離原則は、諸外国に比べ厳格だという見方もあります。

 「政教分離の形はその国がたどってきた歩みで異なります。
フランスのように厳格な国もあれば、
大統領就任式で新大統領が聖書に手を置いて宣誓する米国のような例もある。
日本は国民統合の象徴である天皇が神道祭祀を行っており、
そもそも厳格な分離とは言えません。
戦前・戦中に国家神道の国教的な地位が強化され、
天皇への礼拝や『自己犠牲』が強制された過去を忘れてはなりません」

 「靖国も伊勢も政治家が私人として参拝することは問題ありませんが、
公人の参拝は特定の宗教への肩入れとなります。
かつて、一つの世界観で塗りつぶされ公私の区分がなくなった反省に立って
政教分離が憲法に明記された意味を思い起こしてほしい」

 「立憲主義の核心には、多様な生き方考え方を守り、
国家が個々人に特定の信念を強要することを許さない、
という理念があります。日本の精神文化を豊かにしてきたのは、
仏教や神道、儒教、キリスト教など多様な宗教で、
政教分離は多様な信念体系の共存を守るものなのです」

     ■     ■

 ――11月3日の「文化の日」を「明治の日」に、
と求める運動の背後には何があるのでしょうか。

 「暦は人心への影響が大きいです。
明治政府の下でも天皇崇敬を国民に鼓舞するため、
1873(明治6)年までに天皇崇敬と不可分の様々な祝祭日が作られました。
の一つが紀元節で、2月11日が『神武天皇即位の日』とされました。
戦後、廃止されましたが紀元節復活運動を受け、
66年、この日は『建国記念の日』になりました。
さらに79年に元号法制化、2005年の『昭和の日』制定と続きます。
『明治の日』に向けた動きもその流れにあります」

 ――しかし、昭和天皇は人間宣言をし、日本国憲法で「象徴」になりました。
平成の天皇の歩みを振り返っても、
「国民統合の象徴」として憲法の価値を積極的に支えてきたように思えます。

 「『神聖』な天皇と決別し、多様な精神文化や思想的な立場を共存させ、
国民統合の『象徴』として存在する。それが憲法上の天皇の位置づけです。
昨年8月の『お言葉』で天皇ご自身が、
人間の弱さや限界を認め、常に国民とともにあることを強調された。
神聖な天皇ではなく人間天皇として語ろうという意思と受け止めました」

 「国家神道の考え方が戦後も温存された理由の一つは、
皇室祭祀(さいし)が続いたことでしょう。
しかし、その祈りの質も変わりました。
『天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、
人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、
幸せなことでした』という『お言葉』から感じたのは、
日本国憲法と適合するものに祈りの質を変えようと、模索してこられた姿です。
一人の人間として他者のために祈るという天皇のあり方が、
立憲主義と民主主義を支えつつ、
神聖国家への回帰を防ぐ役割を果たしているように見えます」

 ――日本国憲法施行から5月で70年ですが、
私たちは歴史のどこにいるのか、考えさせられます。

 「米国で大統領の排外主義的なふるまいが
憲法の価値を揺るがしているのは、
他人ごとではありません。
立憲主義を定着させるか、
神聖天皇の過去へ回帰するのか。考えるべきときでしょう」

 (聞き手 編集委員・豊秀一)

     *

 しまぞのすすむ 1948年生まれ。上智大教授、東京大名誉教授。
専門は日本宗教史で国家神道の歴史に詳しい。
著書に「国家神道と日本人」(岩波新書)など。
転載元:http://digital.asahi.com/articles/DA3S12788130.html?rm=150

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テーマ : 伝えたいこと・残しておきたいこと ジャンル : 日記

親米保守政権にとって一番大事なのは、米国支配の世界秩序が続くこと。米国に寄りかかっていれば、自分の立場を守れ、変わる必要はない、と思える。ひたすら対米追従するという日本側の本質は何ら変わっていないのだから、米国の国益追求がむき出しになる分だけ、今後、従属の露骨さはむしろ強まる。

 「日本が(在日米軍の駐留経費で)公正な負担を払わなければ、日本を守ることはできない」。
そんな発言を続けてきたトランプ氏が次期米大統領に就く。
同氏の主張は、戦後、米国を「保護者」のように見てきた日本の常識を覆すものだ。
日本にとって、危機なのか、好機なのか。

 ■自明の対米従属、愚に気付く 宮台真司さん(社会学者)
 米大統領選でのトランプ氏の勝利は僕が待ち望んでいた結果です。
理由のひとつは「対米従属」という日本最大の自明性が崩れること。
戦後しばらくは違いましたが、昨今は「対米従属」が自明の理。
従属を前提に外務、経産官僚らが米国との近さを競う省庁内の席次争いをし、
そこに政治家が依存、メディアや有権者が見過ごす。
この愚かさへの気付きにつながるトランプ大統領誕生は、短期的な混乱を生んでも、
日本にとって良いのです。
 戦後の日本は吉田茂(元首相)ら経済重視の自由党系が対米従属を選び、鳩山一郎(同)ら
国権重視の日本民主党系も対米追従を踏み外せませんでした。
憲法9条護持を掲げる左派も同じ。
平和主義を掲げつつ安全保障は米国に依存、

負担は沖縄に押しつける。見たいものしか見ないご都合主義です。
     *
 ただ戦後しばらく、対米従属は戦略的でした。
米国に軍事を任せて経済に注力する「選択と集中」です。
だからこそ当時の共産党が反9条の愛国路線を掲げる一方、
対米従属が前提の保守と革新が自民党と社会党に合同した。
 1980年代の牛肉やオレンジ交渉ぐらいまでは対米従属の戦略性への自覚がありました。
でも90年代には忘却され、
「米国についていけばよい」という自明性が政治家も含めた共通感覚になった。
 揚げ句が、96年の日米安保再定義のための共同宣言です。
冷戦終了後の日米関係の「見直し」どころか、
米国と一蓮托生(いちれんたくしょう)が当たり前になりました。
昨今の典型がTPP(環太平洋経済連携協定)。トランプ氏が米国の離脱を表明しましたが、
直前まで米国主導のTPP発効が自明とされ、
メディアもそう報じていました。
日本政府はいまだに「米国を説得する」と自明性に埋没したままで
国会審議もトランプ当選などなかったかのよう。
行政官僚制は一度動き出すと、民意を背景に政治家がブレーキをかけない限り止まりません。
それを先の戦争で経験した私たちは通商、原発、基地行政で今同じ経験をしています。
     *
 トランプ氏が選挙戦の主張通り日米安保体制を見直せば、日本は右往左往します。
対米従属前提の小役人の権益が崩壊しても、
別のやり方を採る政治的資源がない。
他のゲームをしようにも、例えば中国との間に信頼醸成がない。
 ひどい秩序でも壊れかけると、混迷した人々が既存秩序にすがろうとする。
だからこそ新秩序のビジョンを告げる営みが必要だ――。
哲学者のグラムシやルカーチが説いた伝統的問題です。
ただ新ビジョン共有には時間がかかり、
短期的混乱は避けられません。
 それでも僕は「祝 トランプ当選」と言います。一過性の現象ではないからです。
米国は軍事プレゼンスを低下させ、中間層分解で民主制を不安定化。分断が進み、
人権や多様性尊重という自由主義的価値の盤石さは崩されている。
 トランプ氏勝利は、そんな文脈で起きた野放図なグローバル化に対する揺り戻しです。
揺り戻しは早いほど後遺症が小さい。
だからブレグジット(英国のEU離脱)に続くトランプ氏当選は良い。
クリントン氏が当選していたら、既存の自明性への埋没が続き、問題が放置されたでしょう。
 つまりそれは単なる暴力的ポピュリズムの勝利ではない。
野放図なグローバル化がもたらす悲惨さを実感できる米国だからこそ、
「自明性の枠内で正しいことを言うだけ」の口舌の徒がノーを突きつけられたと見るべきです。
 クリントン氏と民主党候補の座を争ったサンダース氏も含め、
不器用なアウトサイダーに多くの人がひかれ、
既存政治の自明性が揺さぶられる。日本の「対米従属」もそう。
自明性に埋没した思考停止の蔓延(まんえん)に、
気付きが与えられます。今の日本が混乱するのは当然です。
絶望的な状況の自覚から始めるのです。(聞き手・高久潤)
     ◇
 みやだいしんじ 59年生まれ。首都大学東京教授。専門は社会学。
著書に「社会という荒野を生きる」「日本の難点」など
政治から文化批評まで幅広く分析。




 
 ■自立の意志なく、追従露骨に 白井聡さん(政治学者)
 トランプ氏が米大統領選で当選すると、安倍晋三首相は飛んでいきました。
「夢を語り合う会談をしたい」と言って。
夢みたいなことを言うなよと思いましたね。
 安倍さんは選挙戦中クリントン氏には会った一方で、トランプ氏をスキップしてしまった。
それを挽回(ばんかい)したかったのでしょう。
飼い主を見誤った犬が、一生懸命に尻尾を振って駆けつけた。
失礼ながら、そんなふうに見えました。恥ずかしい。
惨めです。それを指摘しないメディアもおかしい。
 米国が孤立主義に振れれば、
日本は対米従属から対米自立へと向かわざるを得なくなる。
私も早く自立してほしいと思います。
ではすぐにそっちへ向かうかと言えば、
官邸や外務省にはそのビジョンも意志もないでしょう。だって、
見捨てないでくださいご主人様、とやったばかりですよ。
 大統領選中の報道や論議もおかしかった。トランプになったら、
ヒラリーだったら、日本への影響はどうだこうだ、と。これは変でしょう。
自分たちはこうしたい、というのが一切なくて、
米国はどうなるかという読み解きばかり。異様です。
何も考えずに米国にくっついてさえいればいいと思っている証拠でしょうね。
     *
 今後、日本に米軍の駐留経費を100%負担せよと言ってくるかもしれません。
いや150%、200%出せ、かもしれない。はたして安倍政権は断れるのか。
私は断れるという気がしません。
 そもそも、米軍基地の有無や規模と自立性の程度はほとんど関係ない。
ドイツを見てください。巨大な米軍基地がある。
それで米国の顔色をうかがうような政治をやっていますか。違いますね。
 沖縄で米軍基地問題がこれだけ軋轢(あつれき)を起こしているのに、
なぜ政府は正面から向き合わないのか。
 もし、私が権力中枢にいたら、「日米安保を断固維持するために、
なんとかして地元の怒りを静める」と考えます。
4月には沖縄でレイプ殺人事件がありました。
1995年の米兵による集団暴行事件の記憶もある。内心慌てている米国に、
こちらは「日米地位協定ぐらい改定しないとまずい」と持ちかける。
その気があれば、強い姿勢で交渉できるはずです。
 でも日本政府はやらない。最強の用心棒を怒らせやしないか、恐れているからでしょう。
だから沖縄の苦悩には向き合わずに、とにかく米国のご機嫌をとっている。
 親米保守政権にとって一番大事なのは、米国支配の世界秩序が続くことです。
米国に寄りかかっていれば、自分の立場を守れ、変わる必要はない、と思えるからです。
 日本のTPP反対派にはトランプ氏に期待する向きもありますが、楽観していません。
「アメリカ・ファースト」とは、TPPなど手ぬるい、
米企業のために日本はもっと市場を開けろという要求だと解釈できる。

国民皆保険をやめて米の民間保険会社を入れろとか、水道事業を民営化しろとか。
こうした要求に抵抗する覚悟が現政権にあるとは思えない。
     *
 ひたすら対米追従するという日本側の本質は何ら変わっていないのだから、
米国の国益追求がむき出しになる分だけ、
今後、従属の露骨さはむしろ強まると思います。
 90年前後に冷戦が終わり、敗戦によって生まれた対米従属を続ける必要はなくなったのに、
保守政権はその後もそれをやめようとしない。
だから私はこれを「永続敗戦」だと名づけました。この構図がなお続く可能性は高い。
 保護者なき日本はどこへいくか、ですか。
そもそも日本にとって保護者は存在したのでしょうか。
これは国と国との関係です。
親分と子分の関係だって、互いに都合がいいから。利害が変われば関係も変わる。
もし「愛してくれているから同盟関係にある」などと信じているとしたら、
そんなおめでたい国は日本だけでしょう。(聞き手 編集委員・刀祢館正明)
     ◇
 しらいさとし 77年生まれ。京都精華大学専任講師。
13年の「永続敗戦論」(石橋湛山賞)が話題に。ほかに「戦後政治を終わらせる」
「『戦後』の墓碑銘」など。

引用元:http://www.asahi.com/articles/DA3S12674631.html


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テーマ : 伝えたいこと・残しておきたいこと ジャンル : 日記

創価学会はどこへ…将来、連立政権で「公明党の議員が首相になること」も視野に入れている。 創価学会会長・原田稔氏。
赤字はわたくしの個人的見解。


理想を掲げる宗教。現実の世界を動かす政治。創価学会=キーワード=はその二つの領域に関わる。巨大な宗教法人として、また、自民党と連立を組む公明党の支持母体として影響力は大きい。そもそも宗教がなぜ政治に関わるのか、「平和」の問題をどう考えているのか。現在のポストに就いて10年を迎える原田稔会長に話を聞いた。


 ――池田大作名誉会長は88歳。最近は表立った活動を控えています。体調はいかがですか。

 「元気にしておりますよ。執筆活動などに専念しています」

(元気にしているならなぜ姿を見せない?
ゴーストライターが執筆活動をしているのでは?)

 ――最近はいつ会いましたか。

 「ええ、この夏の研修で」

 ――重要な判断も可能なのですか。

 「もちろんです。ただ、数年前からは、基本的に運営は執行部に託し、見守っています」

 ――いま、意思決定の過程はどうなっているのでしょう? 集団指導体制なのですか。

 「そう理解していただいていいんじゃないでしょうか。私をはじめとする執行部内で相談しつつ、大きな方向性を定めています。とはいっても重要な問題もありますから、執行部は名誉会長に報告すべきことは報告し、指導を受けています」

 ――原田会長が重い判断も下しているのですね。

 「任されている立場として、きちっと責任を果たしていく。二つの肩にかかるものはなかなか重くてねぇ、背が少し縮んだ気さえします」

 《「平和主義」「人間主義」を掲げ、核兵器廃絶の運動や難民支援活動などを行っている。》

 ――一方で、創価学会には「わかりにくい」との声もあります。どのような行動原理なのですか。

 「朝夕の勤行・唱題の最後に『世界の平和と一切衆生(しゅじょう)の幸福のために』と祈ります。科学がいかに発達しても、人は生老病死(しょうろうびょうし)という苦しみからは免れることはできませんよね。人間の苦悩を根本的に解決し、希望ある人生を送る。仏法では他者の幸福を願い、行動することによって自らも幸福になる。自身の幸福は社会の平和がなくては達成できません」

 「これは宗祖である日蓮が鎌倉幕府に示した『立正安国論』で強調しています。立正とは『生命尊厳』の理念が社会に確立されること。安国とは人々が安心できる平和社会を実現すること。日蓮の思想には世界の民衆を救うという目的がある。私たちが国内にとどまらず『世界宗教』を目指すのもそれが根本にあるからです」

 「人間疎外の状況が深刻な現代こそ、自分と同じように全ての人をいつくしむ慈悲の精神が社会から求められると思います。『自他共の幸福』を掲げ、よりよい社会への変革を目指しているのです」

 ――宗教が政治や選挙に深く関わることには批判もあります。
(日本国憲法第20条は、日本国憲法第3章にあり、
信教の自由と政教分離原則について規定している。
条文
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、
国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。)


 「政治に関心を抱くのは、宗教者の社会的使命として自然なことです。乱世こそ、人格が優れ、高い理想を持った政治家が必要です。他党に先駆けて『大衆福祉』を掲げた公明党には国民のために奉仕してもらいたいので、選挙という形で応援しています」

 ――会長が公明党の山口那津男代表らに、考えを伝えることは?

 「まったくないかというと、そうではない。山口代表は後輩でもあり、意思疎通は図っています。これでもかなり自制しているつもりですけど」

 ――池田名誉会長は歴代首相と会っています。会長は安倍晋三首相に会っていますか。

 「いや、そういう機会はあんまりございません」

 ――少しは会っているということですか。

 「政策や政局については、すべて党がやってますから。新年のレセプション等で会うことはありますよ」

 《学会は2014年5月、安倍首相が主導した集団的自衛権の行使容認に関して「本来は改憲手続きを経るべきだ」と広報室コメントを発表。だが2カ月後、閣議決定を受け入れた。》

 ――平和に対する立場を変えたのですか。

 「いえ、まったく変わっていません。あのコメントは『本来は』と条件付きです。公明党は、集団的自衛権発動の新3要件に『明白な危険』などの言葉で歯止めをかけた。憲法の平和主義、専守防衛の枠内に収めることができたと評価しています」

(でも、末端の洗脳された学会員は選挙の時だけ公明党への票依頼に熱心で、うるさいほど電話してくる)

 ――国民が納得しにくい論戦が目立ちました。国会審議をどう見ていましたか。

 「振り返ってみると、もうちょっと知恵が出てしかるべきだったな、と思いますよ」

 ――昨夏の反対デモに会員の姿もあったことはどう思いますか。

 「ごく一部の会員の方がいろんな意見を持つことは当然あるでしょう。ただ、会員以外の方が学会の三色旗を掲げて騒ぐようなことがあったとすれば迷惑な話です」
(昨年の新横浜(プリンスホテル)での公聴会で、
三色旗を掲げて、安保法制反対!と叫んでいたのはいたのは顔見知りの学会員グループだった)


 「私も60年安保闘争で国会に突入した学生の一人です。しかし当時は騒然としたムードに流され、安保条約そのものを理解していませんでした。私自身にも反省があるわけですよ。昨年のデモに加わった方にも、総合的に見極めていただきたいですね」

 ――ところで、学会に対しては「閉鎖的」といった批判もあります。60~70年代には、学会を批判する出版物の流通を阻止しようと圧力をかけたとされる「言論出版妨害事件」がありました。

 「あの問題で、社会とのあつれきを経験しました。さまざまな誤解もあるのですが……。ともかくそれを通して、当時の池田会長が『社会から愛される学会にしよう』という大方針を出しました。それ以来、会員がそれぞれ努力しながら今日に至っているわけです」
(社会から愛される学会?世間ではカルトの認識が強いのは紛れもない事実)
 ――多くの宗教団体は伝統仏教も新宗教も、例えば平和というテーマで一緒に行動しています。学会はそういう場面が少なくはないでしょうか。

 「そのような印象を受けられるかもしれませんが、海外では諸宗教と盛んに連携していますよ。国内でも核廃絶や防災などで他の団体と協力しています。平和の実現や社会の発展のために対話し、協力することは大事なこと。より開かれた学会として取り組んでいきます」

 ――将来、連立政権で「公明党の議員を首相にしようか」となったらどう考えますか。

 「万が一、そういうことがあっても、それはそれでいいのではありませんか。学会の信者に首相を任せていいか、と議論が沸騰するでしょう。それも承知のうえで判断してくださるのなら、受けなければならないと思いますよ」

 ――安倍首相は憲法改正に積極的な日本会議と親和性があり、復古主義的だとも指摘されています。学会とは本来、相いれないのではないですか。

 「そのあたりはあまり心配していません。改憲運動を進める動きはありますが、憲法改正についても安倍首相は現実的に、賢明に判断なさるだろうと思いますよ。ただ、日本国憲法の3原則(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)は永遠に堅持すべきです。9条は、いま、ただちにどうこうする必要はないでしょう」(⇐賢明な判断のできる人ではないから反対する人もいるのでは?)

 ――とは言え、安倍首相の政権運営は強気です。現実政治に流されブレーキが弱まる心配はありませんか。

 「私たちは、極端な原理主義と現実への妥協主義のどちらにも走らず、中庸・中道を進もうとしている。宗教的な理想はいささかも揺るがず、社会変革に挑戦していると理解していただけるとありがたい」(聞き手・磯村健太郎、編集委員・曽我豪)

     *

 はらだみのる 1941年生まれ。東京大学卒。64年から学会本部で勤め、庶務室長や事務総長などを歴任。2006年11月に第6代会長に就任。現在3期目。


 ◆キーワード

 <創価学会> 日蓮の教えを信奉、会員(信者)は法華経と南無妙法蓮華経の題目を唱える。国内の会員世帯数は公称827万で、192の国と地域に会員がいるという。総本部は東京都新宿区信濃町にある。

 1930年に創価教育学会として創立。43年、軍国主義のもとで初代会長と第2代会長は治安維持法などの容疑で検挙され、初代会長は獄死した。第3代会長・池田大作氏までの3人は、会則によって「永遠の師匠」と特別に位置づけられる。


 ■創価学会に関する動き

<1930年> 創価教育学会として創立

<46年> 創価学会と改称

<55年> 統一地方選で53人当選。政界進出へ

<60年> 池田大作氏が会長就任

<64年> 旧公明党を結成

<70年> 言論出版妨害事件を機に創価学会と公明党を政教分離

<79年> 池田氏が会長を辞任し、名誉会長に

<99年> 自自公連立政権が発足

<2014年> 創価学会広報室、集団的自衛権の行使容認に「本来は改憲手続きを」とコメント(5月)

< 〃 > 集団的自衛権について憲法解釈の見直しが閣議決定される。学会は容認(7月)

<15年> 安全保障関連法が成立(9月)



転載元:http://www.asahi.com/articles/DA3S12571056.html
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死を考えることは、生きる感覚を高めることにつながる。そして、確かなことはひとつ。不老不死の薬はないということです。
 

■治療、生き方から考えて 田村恵子さん(京都大学大学院教授)

 高価な薬との関連で医療費の問題に注目が集まる機会に、私は人々の目がより根本的なことに向くことを期待しています。それは、命について考えるということです。

 なぜかというと、命について議論することがとても難しいからです。語るにはなにか清廉潔白でなければいけないように思われていますし、家族でご飯を食べながら語り合うこともまれですよね。

 死が迫ってから考えるのでは、こわいだけです。子どものころから人は死ぬものだということを見聞きし、命について考えられるようにしておきたいものです。それができるよう、仕組みを作っていくことも必要だと思います。

 誰しも老いて死ぬという当たり前のことが、医療の進歩とお金の力によって見えにくくなっています。このことも、命に目が向かない要因です。保険が利かない自由診療や最先端の老化防止にはかなりのお金がかかります。受けるのは個人の自由ですが、死や老化が避けられるのではという錯覚が広がってしまわないか、心配です。

 私は長いことホスピスで看護師を務め、今は大学病院でも働いています。がん治療を終え、地域に戻る患者さんが増えています。病院でできることには限界があるので、1年前からがん体験者が交流できる場所を、町屋を借りて開いています。生活に密着した形であれば、命について考えやすいと思ったからです。

 約束事もない、自由な場です。「こんなふうに考えたらええんやな」と気づき、自分なりに命への向き合い方をつかみ取ってもらえたら。地域のなかで知恵が積み重なっていけばと、やっています。

 薬についていえば、病状や病気の進行について平易な言葉で患者さんの理解を確認しながら説明していくことで、患者さんの薬の選び方は変わる気がします。長い目で見れば薬を使っても使わなくても、先の状態が変わらないことはよくあるからです。

 それから、人生の終わりを見定めて逆算して考えることも大切です。死を考えることは、生きる感覚を高めることにつながる。そうするなかで、自分で納得して積極的な治療をやめる人もいます。

 公的に受けられる治療の範囲は、個人ではどうしようもできません。ですから、毎日を心地よく暮らしていくことを考える方がいい。日々の暮らしが豊かになれば、命も豊かになります。

 結局は生き方の問題なのではないでしょうか。最新の薬を使う方が自分らしいのであれば、使えばいい。反対に、そうした薬にしがみついたら、そこだけなんだか自分の生き方と違うなと思う人もいるでしょう。

 確かなことはひとつ。不老不死の薬はないということです。(聞き手・北郷美由紀)

     *

 たむらけいこ 57年生まれ。がん看護専門看護師。25年間、ホスピスケアに携わる。著書に「余命18日をどう生きるか」。

転載元:http://digital.asahi.com/articles/DA3S12552250.html?rm=149



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テーマ : 伝えたいこと ジャンル : 日記

人は「見たい歴史」を見てしまう‥縄文時代は「つくられた」時代だった。1950年後半、貧しかった当時の日本人にとって、縄文時代は『戦前』のようなもので、「克服されなくてはいけない時代だった」

 あなたは「縄文時代」にどんなイメージを持っていますか? 「狩猟採集で生活し、自然と共生していた」「貧富や身分の差がなかった」「日本文化の原点」……。でも、それは「つくられた幻想」だと、先史学が専門の山田康弘さんは主張する。いつ、なんのために「つくられた」のか。「縄文」の真の姿とはどんなものなのか。


 ■「貧しい」「自然と共生・平等」…世相映してイメージ180度変化

 ――縄文時代は「つくられた」と主張していますね。

 「『縄文式文化』『弥生式文化』という言い方は戦前からありました。ただ、石器時代の中に狩猟採集の文化と、米を栽培していた文化があったということで、時代のくくりは、弥生の一部を除いて石器時代でした」

 「戦後になって、アメリカの教育使節団の勧告などで、これまでの神話にもとづく歴史教科書ではダメだ、新しい歴史観で教科書をつくれということになった。当時最も科学的な歴史観と考えられていた『発展段階説』に合わせて、狩猟採集段階の縄文式文化から農耕段階の弥生式文化へ発展したと書かれるようになりました。『縄文』『弥生』の枠組みは、新しい日本の歴史をつくるために、ある意味では政治的な理由で導入され、決められたんです」

 ――敗戦がきっかけで「つくられた」わけですか。

 「ただ、まだ『縄文時代』『弥生時代』ではなかった。変化が起きたのは1950年代後半です」

 「1947年に代表的な弥生遺跡である静岡県の登呂遺跡の発掘調査が始まり、広い水田や集落の跡が発見されました。弥生式文化の範囲も、西日本だけでなく関東や東北まで広がっていたことがわかってきます。その段階で『弥生時代』という言葉が出てくるんです。縄文時代から弥生時代を経て古墳時代へという道筋で、日本の歴史が語られるようになります」

     *

 ――なぜ「文化」から「時代」になったのでしょう。

 「50年代は、戦後の日本が講和条約を結び、国連に入るなど、国際社会の中で地歩を占めていった時期です。それと並行して、日本とは何か、日本人とは何かが強く意識されるようになった。その中で、石器時代、青銅器時代、鉄器時代といった世界史共通の区分とは別に、日本独自の時代区分が求められたのだと思います」

 「『弥生時代』は、登呂遺跡のように稲が実り、広々としたのどかな農村という、非常にポジティブなイメージとともに広まりました。戦後まもない頃の日本人は、弥生に日本の原風景、ユートピアを見たんです。その一方で、裏表の関係にある縄文は、貧しい、遅れた時代ということにされてしまった」

 ――縄文はネガティブに見られていたわけですね。

 「当時の日本人にとって、縄文時代は『戦前』のようなものだったと思います。『克服されなくてはいけない時代』だったんです」

 「しかし70年代になると、縄文のイメージは大きく変わります。縄文は貧しいどころか、豊かな時代だったという見方が出てくるんです」

 ――なぜ見方が百八十度変わったのですか。

 「国土の開発が盛んになり、大規模な発掘調査が数多く行われました。縄文の遺跡からも籠や漆を塗った椀(わん)などが続々と見つかり、縄文人が高い技術を持っていたことが明らかになった。一方で、弥生時代の遺跡からは武器がたくさん出てきて、争いの多い時代だったこともわかってきます。『縄文は遅れていた』『弥生は平和』というイメージが崩れてきたんです」

 「もう一つの要因は、70年代の世相です。高度成長も終わって、一息つく時期になる。公害などが社会問題化して、現代社会への懐疑も高まっていました。その中で、旧国鉄の旅行キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』がブームになります。社会がアメリカ化されてきた反動で、日本の原点とは何かを探すようになった」

 ――それがなぜ縄文とつながったのでしょうか。

 「『縄文ポピュリズム』の影響もあったと思います。その代表が芸術家の岡本太郎で、50年代に縄文土器を美として『発見』し、日本文化の基底にあるものとして縄文を新しく提示してみせた。岡本たちの『縄文ポピュリズム』が、70年代のオカルトブームや『ディスカバー・ジャパン』的な空気と結びついて、縄文ブームが起きます。呪術を行う一方で、工芸など高い文化を持ち、みんなが平等で、自然と共生していたユートピアとして、縄文が描かれるようになった」

 ――弥生に代わり、縄文が理想の社会にされたと。

 「ところが90年代になると、『縄文階層社会論』が盛んになります。青森県の三内丸山遺跡などが発掘され、これほど大型の遺跡がある以上、単なる平等社会ではなかったはずだという見方が出てきた。平等社会というイメージに疑問符が投げかけられたんです。バブル崩壊後、格差や社会の階層化が問題になった時期で、縄文時代ですら階層があったという話に安易に乗る人も出てきてしまった」

 「縄文のイメージは、考古学的な発見とそれぞれの時代の空気があいまってつくられてきたものです。見たい歴史を見た、いわば日本人の共同幻想だったんです」

     *

 ――実際の縄文の姿とはかなり違っているのですか。

 「研究の最前線では、狩猟採集の時代という縄文の枠組み自体が揺らいでいます。豆の栽培など農耕に近いことをやっていたこともわかり、生業だけで縄文と弥生を分けるのは難しくなっている」

 「縄文といっても地域によって大きく違います。中国・四国地方などの縄文文化は、三内丸山遺跡のような大規模な集落もなければ、人々が長期間定住していたわけでもない。同じ時期に様々な地域文化が併存している。縄文文化は『日本国の歴史』という視点からの総称にすぎません」

 ――とはいえ、「縄文時代」が存在したことに変わりはないのでは。

 「縄文時代や弥生時代という大きな枠組みを設定すること自体はいいんですが、時期や地域によってかなり違いがあることを前提にすべきです。しかし『縄文より弥生のほうが優れている』とする進歩史観や、『縄文こそロハスなユートピア』という考え方がいまだに根強くあるために、その多様性の価値を認めようとしない人が多い」

 ――「縄文幻想」から脱するには、何が必要ですか。

 「どんな時代も、過度に美化しないことです。縄文人は自然と共生していたと言われますが、集落をつくるために森を焼き払ってもいる。人口が全体で20万人と非常に少なかったので、多少自然を破壊しても再生されていたにすぎないとも考えられます」

 「縄文に限らず、ある時代の一側面だけを切り取って、優劣をつけるのは、様々な意味で危険です。『縄文は遅れていた』『縄文はすばらしかった』と簡単に言ってしまうのではなく、多様な面をもっと知ってほしいですね」

     ◇

 やまだやすひろ 49歳 1967年生まれ。先史学者。国立歴史民俗博物館教授。専門は縄文時代を中心とした先史墓制論・社会論。著書に「つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る」「生と死の考古学 縄文時代の死生観」「老人と子供の考古学」など。


 ■教科書の記述は

 縄文時代観の変遷は、高校の日本史教科書にも表れている。

 1984年の「詳説日本史(新版)」(山川出版社)では、「縄文時代は、狩猟・漁撈(ぎょろう)・採集の段階にとどまり、生産力は低かった」「人々は不安定できびしい生活をおくっていたと考えられる」となっている。

 一方、2016年の「詳説日本史B」(同)では、「クリ林の管理・増殖、ヤマイモなどの保護・増殖、さらにマメ類・エゴマ・ヒョウタンなどの栽培もおこなわれたらしい」「食料の獲得法が多様化したことによって、人びとの生活は安定し、定住的な生活が始まった」となっており、縄文時代への見方がはっきりと変化している。

 縄文社会が平等だったかという点についても、84年版では「人々は集団で力をあわせてはたらき、収穫物はみんなで公平にわけあった」とされているのに対し、16年版では「人びとは集団で力をあわせて働き、彼らの生活を守った」となっており、「公平にわけあった」という記述はなくなっている。


 ■取材を終えて

 歴史の見方は時代によって変わるというのは、頭ではわかっていた。とはいえ、縄文時代の評価が、時代の空気にこれだけ左右されてきたというのは、かなり驚きだった。

 人は「見たい歴史」を見てしまうと山田さんは言う。縄文だけでなく、私たちは江戸時代や明治時代にも「見たい歴史」を見ているのかもしれない。「○○時代はこうだった」という思い込みの危うさを痛感させられた。

 (尾沢智史)

転載元:http://digital.asahi.com/articles/DA3S12534084.html?rm=541

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テーマ : 伝えたいこと・残しておきたいこと ジャンル : 日記

シリアの紛争は『テロとの戦い』でも何でもありません。地元の事情に基づく地域紛争なのです。イラクの紛争も、西アフリカのマリの紛争も、みんな固有の事情に基づいています。それを無視して『イスラムのテロリスト』のレッテルを相手に貼るばかりならば、物事の本質を見失うことになる。

パリで、ブリュッセルで、中東各地でテロが止まらない。イスラム教の若者の過激化をどう防ぐか。多くの人が方策を論じる。しかし、欧州を代表するイスラム世界専門家オリビエ・ロワ氏の見方は異なる。「今の現象はイスラム教徒の過激化でなく、過激派のイスラム化だ」。学界やメディアで注目を集めるその主張を聴いた。


 ――昨年はフランスで風刺週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件、パリ同時多発テロと、イスラム過激派の大規模テロが相次ぎました。今年も3月にブリュッセルで連続テロが起きるなど、緊張状態が続いています。何より衝撃的なのは、容疑者たちがいずれも、欧州に生まれ育った若者たちだったことです。彼らがシリアに渡って過激派組織「イスラム国」(IS)に加わるのも、それから自国に戻ってテロを企画するのも、理解を超えています。

 「彼らは往々にして『謎めいた存在』と思われがちです。しかし、実際には、彼らに関する捜査当局やメディアの情報は多い。それを検証する限り、過激になる前から敬虔(けいけん)なイスラム教徒だった若者は全くいません。布教にいそしんだ人、イスラム団体の慈善活動に従事した人も、皆無に近い。イスラム教徒への差別に抗議の声を上げもしなければ、学校での女生徒のスカーフ着用を巡る議論に関心も持たなかったのです」

 「彼らは礼拝もせず、逆に酒や麻薬におぼれ、イスラム教が禁じる食材も平気で口にしていました。例えば、昨年11月のパリ同時多発テロ現場にかかわったとされるサラ・アブデスラム容疑者はその数カ月前、酒場で酔っ払ってどんちゃん騒ぎをしていたことが、映像から確認されています」

 「彼らの多くはまた、自動車盗やけんかや麻薬密売といった犯罪に手を染め、刑務所生活を経験しています。つまり、ごく平凡な『荒ぶる若者』に過ぎません」

     ■     ■

 ――でも、その多くはイスラム教徒の家庭の出身ですよね。

 「データによると、こうした若者の6割以上が移民2世です。移民1世や3世はほとんどいない。残りは、キリスト教家庭からの改宗者が多く、全体の約25%に達します。テロが起きたフランスやベルギーに限らず、欧州各国で同様の傾向がみられます」

 「フランスを例に取ると、移民1世が信じるイスラム教は、彼らの出身地である北アフリカの農村部に根付いた共同体の文化です。しかし、1世はそれを2世に引き継げない。フランスで育った2世たちは親たちの言語を話せず、仏文化を吸収しているからです」

 「親の宗教文化が伝わらないのは、改宗者も同じです。改宗という行為そのものが、引き継ぎを拒否する姿勢なのですから」

 ――親子間の断絶ですか。

 「今起きている現象は、世代間闘争です。若者たちは、自分たちを理解しない親に反抗し、自分探しの旅に出る。そこで、親のイスラム教文化とは異なるISの世界と出会う。その一員となることによって、荒れた人生をリセットできると考える。彼らが突然、しかも短期間の内にイスラム原理主義にのめり込むのはそのためです」

 「彼らが魅せられるのは、ISが振りまく英雄のイメージです。イスラム教社会の代表かのように戦うことで、英雄として殉教できる。そのような考えに染まった彼らは、生きることに関心を持たなくなり、死ぬことばかり考える。自爆を伴うジハード(聖戦)やテロは、このような個人的なニヒリズムに負っています」

 「テロには、兄弟そろってかかわるケースが非常に多い。『シャルリー・エブド』襲撃事件のクアシ兄弟、パリ同時多発テロのアブデスラム兄弟から、2013年に米ボストン・マラソンの会場で爆弾テロを起こしたツァルナエフ兄弟まで、イスラム過激派テロの容疑者の約3分の1が兄弟です。これは、親世代に対抗するために力を合わせる子世代の意識の表れだと分析できます」

 ――親に反抗する子どもというと、今に限らず、いつの時代にもいたように思えます。

 「こうした現象が初めて顕著になったのは、中国の文化大革命でした。若者たちが親を『打ち倒すべき敵』と位置づけ、ちゃぶ台をひっくり返して、すべてをゼロから始めようとした。1960年代以降、このように親の世代を否定する過激派現象が世界で吹き荒れました。68年のフランスの学生運動『5月革命』、テロを展開した『ドイツ赤軍』、カンボジアで虐殺を繰り広げた『クメール・ルージュ』は、みんなそうした例です。若者による親殺しなのです」

 「しかし、冷戦が崩壊し、共産主義はもはや若者を魅了しなくなりました。左翼思想は辛うじて生き残っていますが、インテリやブルジョアのたしなみに過ぎない。移民街の貧しい若者を魅了しません。彼らの反抗のよりどころとして、現代に唯一残ったのが、イスラム教のジハード主義です。若者たちは今、テロ組織『アルカイダ』を率いたオサマ・ビンラディン容疑者を、革命家チェ・ゲバラになぞらえるのです」

     ■     ■

 ――政治家や専門家は、イスラム教徒やイスラム社会の過激化をどう防ぐかについて論じます。

 「だけど、現在起きているのは、若者たちの個人的な意識に端を発する現象です。イスラム社会が過激化したわけでも何でもない。イスラム社会が抱える問題とは全然関係ありません」

 「だいたい、欧州に『イスラム社会』などというものが存在するとは思えません。もちろんイスラム教徒は住んでいますが、彼らが一つのコミュニティーを形成しているわけではない。フランスにもベルギーにも『イスラム社会の指導者』なんていないし、『イスラム票』『イスラム・ロビー』も見当たらないのが現実です」

 ――パリやブリュッセルのテロを起こした集団の拠点は、ブリュッセル郊外でイスラム教徒が多く住むモランベーク地区でした。ここではイスラム過激派の浸透が懸念されていますが。

 「確かに、イスラム復古主義者が運営するモスクはあります。でも、逆に見るとそれだけで、彼らが街の一部を支配して例えばシャリア(イスラム法)を施行しているわけではありません」

 「移民出身のイスラム教徒系住民の層は、社会的に恵まれない層と、往々にして一致します。つまり、麻薬の蔓延(まんえん)や過剰飲酒などこのような地区が抱える問題は、イスラム教によるものではなく、社会的要因に基づくものなのです。むしろ、マフィアの存在、地下経済の広がり、行政の無策が生んだ状況だと考えられます」

     ■     ■

 ――何でもかんでも「イスラム教だから」と説明するのは間違いなのですね。

 「しばしば指摘される過激派の暴力的、威圧的な態度も、イスラム主義に限ったものではありません。若者文化、ストリート文化につきものなのです。ロサンゼルスのヒスパニック系ギャングにも、シカゴの一部の黒人集団にも、同様の傾向がうかがえます」

 ――イスラム過激派のテロとの戦いが世界の課題ともいわれていますが。

 「『イスラム過激派の脅威』があちこちで叫ばれますが、現実とはかけ離れた、いわゆる『空想的地政学』の産物に過ぎません。中東で起きている紛争も、実際には宗教的要素が薄く、基本的に国家間の争いだと位置づけられます。その過程で、国家が国境を管理できなくなり、国内少数派をうまく扱えなくなったのが現状です。IS問題の原因もそこにあります」

 ――欧米はISに対する空爆を続けています。

 「確かに、現地でISと戦う勢力への支援にはなるでしょう。ただ、その軍事行動に『テロとの戦い』などの思想的な意味づけをしてはなりません。欧米との決戦を掲げるIS側の思うつぼです」

 「実際には、シリアの紛争は『テロとの戦い』でも何でもありません。地元の事情に基づく地域紛争なのです。イラクの紛争も、西アフリカのマリの紛争も、みんな固有の事情に基づいています。それを無視して『イスラムのテロリスト』のレッテルを相手に貼るばかりならば、物事の本質を見失うことになるでしょう」

     *

 Olivier Roy 欧州大学院大学(EUI)教授 1949年フランス生まれ。仏国立科学研究センター主任研究員などを歴任。邦訳著書に「現代中央アジア」。

 

 ■取材を終えて

 ロワ氏は、研究者として型破りの経歴を持つ。10代で国外を放浪しアフガニスタンに流れ着いた。その後高校の教師になったものの、旧ソ連のアフガン侵攻の際は義勇兵として現地に戻り、銃を手に戦った。テロ組織「アルカイダ」のメンバーは戦友だ。

 戦場でイスラム過激派と議論を重ねた経験が、今の研究を支えている。中央アジアや東南アジアを含めて俯瞰(ふかん)するロワ氏のダイナミックな視点は、中東の枠内で調査分析に携わる場合が多いイスラム研究者の中で異彩を放つ。

 近年は欧州とイスラム世界との将来像を、EUIの学生らと模索している。テロの恐怖から脱却する糸口がそこに見いだせると期待したい。(論説委員・国末憲人)

転載元:http://digital.asahi.com/articles/DA3S12403912.html?rm=150


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米大統領の広島訪問というセレモニーだけでは、何も変わらない。やはりその場で、戦略的に謝罪を求めるか、『核兵器が死の道具だと言うのであれば、投下したことをどう思われますか』と質問すべきでした。単にアメリカを責めるためではなく、われわれが核とどう向き合ってきたのかを問い直すための『戦略』です。大統領が原爆慰霊碑に献花した象徴的な映像を、『これで原爆の問題は解決した』というイメージづくりに利用されてはならない。
 

米大統領の歴史的な広島訪問を、日本社会はいっせいに歓迎した。だが、1960年代だったら、原爆投下国の指導者をどう迎えていただろうか。核に対する日本人の視線はいつ、どのように変化したのか。「ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ」の視点から、日本人の「核のイメージ」の変遷を読み解いてきた気鋭の研究者に聞いた。


 ――米国の現職大統領が広島を訪れました。その様子や日本社会の受け止めをどう見ましたか。

 「71年後とはいえ、原爆を投下した側の大統領が広島を訪れたことに、歴史的な意義はあるでしょう。ただ、誰にとっての、どんな意義なのか。それを真剣に考えないまま、オバマ氏を歓迎一色で迎えたように感じられ、違和感も覚えました。いまの日本人は、『核』をリアルにイメージできなくなっているのだと思います」

 ――歓迎一色はおかしいと。

 「反発や怒りが出てこなかったのが不思議でした。被爆者がアメリカに恨みを抱くのはごく自然なことで、今回も『ふざけるな』と思っている方がいたかもしれない。しかし、そうした怒りが、社会の反応として出てこない」

 ――怒りが現出しないのは最近の現象なのでしょうか。

 「かつては激しい怒りが描かれていたこともありました。思い出すのは、『はだしのゲン』の作者で、自身も被爆者だった中沢啓治さんの『黒い雨にうたれて』(1968年)という短編です。主人公は被爆者で、原爆を落としたアメリカへの怒りから、外国人だけを狙う殺し屋になる。アメリカも日本政府も恨んでいる主人公が、アメリカ大統領が広島に来ると知ったら、どう思ったでしょうか」

    ■     ■

 ――原爆への感情は、時代と共に変化してきたのですか。

 「アメリカへの怒りや恨みの感情はずっと存在していたのでしょうが、その表出のされかたは時代によって変わってきました。大きく分けると、怒りを表せなかった終戦直後、それが解き放たれた50~60年代、『平和国家』の名のもとに怒りを表しづらくなった70年代以降、となるでしょうか」

 「敗戦直後は、占領下ということもあって、原爆を『平和の礎』とする空気がありました。被爆体験を書いた『長崎の鐘』(1949年)で知られる医学者の永井隆は、原爆投下は『神の摂理』であり、死者は『平和のための聖なる犠牲』だと書いています」

 「怒りがはっきりと表明され始めたのは、50年代の左翼運動の中でした。アメリカの帝国主義と原爆を結びつけ、怒りをぶつけた。ただ、左翼運動や平和運動から、被爆者の情念的な怒りが次第に排除されました。個人の恨みは、平和の理念にそぐわないものと見なされていたんです」

 ――被爆者の怒りは、水面下に押し込められていたわけですね。

 「60年代になると、被爆者個人に向き合う人たちが広島・長崎以外からも出てきます。代表的なのが作家の大江健三郎さんや芸術家の岡本太郎さんです。大江さんは個別の被爆者を取材したルポ『ヒロシマ・ノート』(1965年)で、『われわれには《被爆者の同志》であるよりほかに、正気の人間としての生き様がない』と書いています。岡本さんも広島を訪れ、『われわれ自身が被爆者なのだ』という感想を残す。被爆者個人に連なり、水面下にある被爆者の怒りを表面に出す『パイプ』をつくろうとした。しかし70年代に入ると、それがなくなっていく」

 ――なぜですか。

 「70年代に、『平和』という美名のもとに国民がうまく取り込まれてしまったからです。そこで大きな役割を果たしたのは佐藤栄作です。佐藤は首相として初めて、広島の平和記念式典に出席しました。実際には沖縄への核持ち込みを認めておきながら、非核三原則を表明して、ノーベル平和賞まで取った。『平和国家・日本』という美しい物語を国民に提示してみせたわけです」

 「国民の側もそれを望んだ。高度経済成長を経てみんなが豊かになり、保守化して、自民党政権と『平和国家・日本』という物語を受け入れた。原爆をめぐる問題は『平和』に覆い隠され、被爆者個人の怒りは表に出てこなくなってしまった。それが今回の歓迎ムード一色にもつながっています」

 ――原爆の問題が見えにくくなっているわけですか。

 「常に核を意識し、それを批判しつづけるという緊張関係が重要なのに、『平和』の美名のもとで核を徹底的に否定するあまり、核兵器が想像力の範囲外に置かれてしまったのだと思います」

    ■     ■

 ――日本人が核兵器をリアルに捉えられなくなったのは、いつごろからでしょうか。

 「戦後の核の恐怖には、核戦争の恐怖と、核実験の恐怖という2種類がありました。『ゴジラ』(1954年)に表れているのは核実験の恐怖です。水爆実験で目覚めたゴジラが、放射能を吐きながら東京に上陸する。放射能が生活の場に入り込んでくるという恐怖です。その原点は、第五福竜丸や、放射能で汚染されたマグロのイメージでしょう。しかし63年に大気圏内での核実験が禁止されると、その恐怖は薄れていきます」

 「一方、核戦争の恐怖は、総力戦と結びついていました。戦後の日本人がイメージする戦争は、総力戦すなわち第3次世界大戦で、核兵器はそれに直結していた。50年代の朝鮮戦争、60年代のキューバ危機、70年代後半のソ連のアフガニスタン侵攻の際には、このまま第3次世界大戦に発展し、核兵器が使用されるかもしれないという恐怖が語られました」

 「80年代前半までは、核戦争の恐怖がまだリアルなものとしてありました。しかし、冷戦が終わると、誰も総力戦が起きるとは考えなくなった。総力戦と密接に結びついていた核兵器のイメージも希薄になり、唯一の戦争被爆国でありながら、核兵器をリアルに実感できなくなってしまった」

 ――ふつうの日本人の核への意識が変化してきたわけですね。

 「その変化は、映画やマンガなどのポピュラー文化からも読み取れます。50~60年代には、核兵器による最終戦争が映画や小説で数多く描かれました。61年の映画『世界大戦争』では、二つの大国の間で核戦争が起き、日本が滅んでしまう。そういう作品が作られたのは、核戦争のリアリティーがまだ残っていたからでしょう」

 「80年代になると、『北斗の拳』(武論尊、原哲夫)、『AKIRA』(大友克洋)、『風の谷のナウシカ』(宮崎駿)など、核戦争らしきものが起きた後の世界を描く作品が次々に現れ、歓迎されます。核戦争がリアリティーを失い、一種の舞台装置として機能するようになってしまった」

    ■     ■

 ――現実には、北朝鮮の核開発など脅威は高まっています。

 「皮肉なことですが、日本人の意識の中では、『核なき世界』がすでに実現してしまっているのかもしれません。だから、オバマ大統領が広島に来ても何のハレーションも起きない。次期大統領候補のトランプ氏に『日本の核武装を容認する』とまでいわれても、騒がずにスルーしてしまう」

 ――5年前の福島第一原発事故で、日本人の核に対する意識はまた変わったのではないですか。

 「原発事故を経て、多くの人が被曝(ひばく)の可能性を身近に感じるようになりました。それは、かつての核実験の恐怖に近い。生活の場に放射能が入り込んでくる恐怖が、再びリアルなものになった」

 「しかし、原発事故は、核戦争や核兵器の恐怖とはなかなかつながらない。3・11を経験したことで、広島・長崎を捉え直す動きが出てきたようには思えません」

 ――日本人が現実の核と向き合うには何が必要だと考えますか。

 「戦後の日本が、核に対して矛盾した態度を取ってきたことを問い直すべきです。『唯一の被爆国』といいながら、核の傘の下にあり続け、『安全・繁栄・平和』を享受した。矛盾を自覚することが生産的な議論に繋(つな)がるはずです」

 「核について建前だけで話すのではなく、感情を取り戻すべきです。非生産的だといわれて抑圧されてきた情念的な怒りや恨みが、生産的なパワーとなって、『平和』や『日米友好』の美名にヒビを入れられるかもしれない」

 ――大統領の広島訪問は日本人の核への意識を変えますか。

 「セレモニーだけでは、何も変わらない。やはりその場で、戦略的に謝罪を求めるか、『核兵器が死の道具だと言うのであれば、投下したことをどう思われますか』と質問すべきでした。単にアメリカを責めるためではなく、われわれが核とどう向き合ってきたのかを問い直すための『戦略』です。それを日米の対話の糸口にしたい」

 「オバマ大統領の広島訪問は、核についての生産的な議論をするためのきっかけになる可能性をもっていました。その貴重な機会を現状では生かし切れていないのではないでしょうか。大統領が原爆慰霊碑に献花した象徴的な映像を、『これで原爆の問題は解決した』というイメージづくりに利用されてはならないと思います」(聞き手・尾沢智史)

    *

 やまもとあきひろ 84年生まれ。専門は日本近現代文化史、歴史社会学。著書に「核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ」「核エネルギー言説の戦後史1945―1960」。

転載元:http://digital.asahi.com/articles/DA3S12380385.html?rm=150



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日本には教訓を生かさない「悪い文化」がある。先の戦争での作戦失敗の繰り返しはまさにそのためでした。失敗の原因と責任関係を徹底的に明らかにして制度を変えることをしない。無責任国家とも言えます。60年を経た水俣病も5年を経た福島の原発事故も現在進行形の問題なのです。

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今月、公式確認から60年を迎えた水俣病の問題は、時を超えて人間や社会に影響を与え続ける公害というものの本質を示している。そこから私たちが学びとったものは。


 ■無関心が生んだ、社会の病 永野三智さん(水俣病センター相思社常務理事)

 水俣病の患者相談で最近目立つのは、行政に患者と認定されていないログイン前の続き50代の訴えが増えていることです。子どもの頃、何も知らずに汚染された魚を食べて、今も苦しんでいる人たちがいる現実に、国家や企業、社会、そして私たち一人ひとりが犯した罪を感じています。

 今になって被害を訴え始めたのは、高齢化で症状が顕在化しただけではありません。原因企業であるチッソ(現JNC)を退職して仕事のしがらみがなくなったり、子どもが就職や結婚を終えて、差別を受ける怖さが薄らいだりした影響が少なくありません。背景には、市民に根強く残る水俣病への差別意識があります。

 水俣はかねて「チッソ城下町」で、チッソは今も経済の中心です。チッソに依存し、患者を差別してきた市民も、実際にはチッソのメチル水銀被害を受けています。しかし、救済策を受けても自分の被害は隠し、チッソから補償された他の患者を中傷している。市民の立場により加害と被害が複雑に重なり合い、今も水俣では、水俣病が「タブー」となっています。

 私は水俣市内の水俣病が激発した地域で生まれ、近所の胎児性水俣病患者にも可愛がられて育ちました。

 外の世界が水俣病をどう見ているのか、初めて知ったのは小学5年の時でした。旅先のタイのプールで会った日本人男性が、水俣から来たと話した途端に「うつるんじゃない?」と出て行きました。中学時代には「水俣病がうつる、汚い」と言われました。水俣を恥ずかしいと思い、中学卒業後に地元を離れてからは、水俣出身だということを隠しました。

 20歳の時、書道の恩師が亡き母親の患者認定と謝罪を求めて裁判で闘っていることを知り、水俣病に向き合うようになりました。理不尽な歴史を前に、チッソ、事件を放置し続けた行政、差別を止めなかった自分の存在に気がつきました。

 裁判は2013年、最高裁が国の基準より広く被害を認める判決を出しました。しかし国は認定基準を変えず、かつての水銀摂取を裏付ける客観的資料を求める通知を出しました。これでは、新たに認定される患者は更に限られるでしょう。

 「公害に第三者はない」。公害研究の第一人者だった故・宇井純さんの言葉です。水俣病事件に無関心を決め込む私たちの未来への選択が問われています。当事者と第三者との断絶を埋めない限り、社会がまた新たな病を生み続けることは自明でしょう。

 水俣病は、社会の病を映し出しました。水俣病を知ることが、社会を知り、未来を変えることにつながると信じています。(聞き手・斎藤靖史)

     *

 ながのみち 83年、熊本県水俣市生まれ。08年から相思社職員として患者支援などに取り組み、昨年4月から現職。

 

 ■村は補償金で破滅した 岡本達明さん(民衆史研究者、元チッソ第一組合委員長)

 水俣病の60年は、どの局面をとっても不条理です。不条理の連鎖がどこまでも続く。

 被害者が前面に出た稀有(けう)の公害闘争が水俣病でした。

 1973年、チッソに賠償を求める裁判に勝った原告団は、東京駅近くの本社で座り込みを続ける患者たちと合流して交渉を始めます。要求の柱の一つは年金と療養費。これを拒む当時の島田賢一社長に患者家族の坂本トキノさんが淡々と言いました。

 「病み崩れていく娘を何年みてきたか。あんたの娘を下さい。水銀飲ませてグタグタにする。看病してみなさい。私の苦しみがわかるから」

 4カ月の交渉の末、行政が水俣病と認定したら1600万~1800万円の補償金と年金、療養費も支払うという協定を勝ち取りました。

 実はその5年前、政府の公害認定直後にもチッソの専務と交渉しました。患者はものも言えない。集落から工場へ通う労働者は「会社行き」と呼ばれて別格。まして専務など雲の上の人という意識でした。闘いの中で患者は別人のように成長したんです。

 チッソに入ったのは57年です。水俣へ赴任して間もなく路上で「うちに来んかね」と声をかけられた。帰郷中だった詩人の谷川雁(がん)さんでした。安保闘争や全共闘の世代に影響を与える思想家とは知らない。家へ行っても左翼思想を吹き込まれたわけでもない。でも会社から目をつけられ、1年半で飛ばされました。

 62~63年の水俣工場の大争議によって組合が分裂する。大卒ではただひとり第一組合に加わり、64年に専従執行委員となって戻りました。会社は日夜、1人ずつ課長室に連れ込んで「第二組合へ来い」と責める。断れば重労働職場に配転です。でも工場内で闘うだけが組合なのか。第一組合は68年、「水俣病患者のため何もしてこなかったことを恥とする」と宣言し、人間として患者を支援しました。

 患者が激発した水俣湾岸の3集落の調査を続け、昨年、「水俣病の民衆史」を出版しました。ざっと300世帯のうち認定されたのは176世帯の331人。低く見積もっても50億円以上の補償金が落ちた計算になります。水俣では人間の評価は住まいで決まる。みんな裸電球一つの掘っ立て小屋に住んでいたから、多くの患者が競って家を建てシャンデリアを付け、ダイヤモンドの宝飾品を買う。そうなると人間が変わります。

 1次産業と工場が支えだったのが、漁業は壊滅、農業は落ち目、工場の雇用は細々。貧しくても助け合ってきた村はなくなった。水俣病のせいで村が潰れたわけじゃない。補償金で潰れたんです。

 命や健康は返らない。補償金を取るしかない。でも今度はカネで村が破滅する。公害は起こしたらおしまいということです。(聞き手・田中啓介)

     *

 おかもとたつあき 35年生まれ。原田正純医師らと水俣病研究会を結成し、患者・家族の裁判も支援。70~78年第一組合委員長。

 ■教訓生かさぬ文化、絶て 柳田邦男さん(ノンフィクション作家)

 10年前、環境省の官僚にだまされました。水俣病公式確認50年が近づく2005年、小池百合子環境相が「水俣病問題に係る懇談会」を設置した時です。委員を委嘱される時、認定基準の見直しを論じるのかたずねました。水俣病と思われる多くの患者が認定されない状況だったからです。担当部長は「別の委員会を設置するから、認定基準は懇談会の議題にしない」と言いました。しかし、その委員会は設置されませんでした。

 水俣病が公式に確認されたのは1956年5月。しかし、政府が原因物質をチッソのアセトアルデヒド廃水に含まれるメチル水銀と認め、水俣病を公害病としたのは68年です。死者が続出していたのに12年間も、政府はチッソを守るために対策を遅らせたのです。経済成長を優先され、人命が軽んじられたのです。

 懇談会は提言書で被害の全容解明を求めましたが実現していません。根本解決に踏み込まず、「政治解決」による補償や水俣病被害者救済法(特措法)に基づく救済策で済ませました。その結果、多くの未認定の被害者は取り残されています。

 日本には教訓を生かさない「悪い文化」がある。先の戦争での作戦失敗の繰り返しはまさにそのためでした。失敗の原因と責任関係を徹底的に明らかにして制度を変えることをしない。無責任国家とも言えます。

 4月の熊本地震でも同じ構図があらわになりました。複数の役所や病院が使えなくなりましたが、95年の阪神大震災で神戸市役所や病院の一部が被災して機能を失った教訓が生かせていない。九州新幹線の脱線現場には中越地震を教訓に設置が広がっているガードがなかった。安全対策を先送りする悪い文化です。

 福島の原発事故も同じでした。東電は事故前に、実際に発生したものより大きい津波が起こりえるとの試算を内部でも出していました。しかし巨額の費用が必要な対策は見送られた。政府も対策を実行させようとしなかった。

 懇談会の提言に盛り込んだ「2・5人称の視点」をもってほしいのです。行政が仕事をする際、被害者や患者の身になって考えることが大切です。冷たい三人称でも感情に走る二人称でもなく、合理性と人間味を兼ね備えた対応こそ新しい時代をひらきます。

 先日、広島での主要7カ国(G7)外相会合で、核兵器のない世界を目指す「広島宣言」が採択された。被爆者の声が世界平和の一つの原点になっている。来日したオバマ米大統領は広島で何を語るのか。一方の水俣病で政治や行政、企業が犯した犯罪的な問題は、悪い文化を絶つために語り継ぐべき原点です。過去のものにしてはいけない、現在進行形の問題です。(聞き手・野瀬輝彦)

     *

 やなぎだくにお 36年生まれ。社会問題を問う著作多数。政府の福島原発事故調査委員会で委員長代理を務めた。
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転載元:朝日新聞(2016/05/27)

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テーマ : みんなに知ってもらいたい ジャンル : 日記

数多の屍を前にして、祈ることしか術がなかった「1947年の祈り‥」普遍的な原理より『我が国固有の伝統』に固執、配慮しようとする今の改憲。それで信頼が得られるか。

69回目の憲法記念日を迎えた今年。政治家は、いつに増して大きな声で改憲を語る。戦争に敗れた1947年の日本人が、新憲法に託した未来は2016年の今、ここにないのか。憲法、アメリカ、そして改憲。神学者、キリスト者は今、何を語るのか。森本あんり国際基督教大学学務副学長に聞いた。


 ――先生の専門は神学ですね。キリスト者、神学者として憲法を巡る現状をどう考えていますか。

 「憲法が制定された当時、1947年の日本では、キリスト教徒も仏教徒も無神論者も、みんなが祈っていました。何百万もの人が死んだのです。屍(しかばね)を前にして、できたのは、祈ることくらいだったろうと思います。広島、長崎に行って慰霊碑の前に立てば、信仰や宗派にかかわらず、だれもが頭(こうべ)を垂れる。それと同じ気持ちが、この憲法に込められていると思います」

 「元最高裁判事の那須弘平氏は、日本国憲法を『祈りの書』と呼びました。『懺悔(ざんげ)と謝罪の書』とも言っています。憲法を読むと、『決意し』『念願し』『信ずる』『誓う』と、ふつうの法律文書にはない言葉が出てきます。『永久』『恒久』という言葉もありますが、それは明らかにこの世の政府や法律が保障できる範囲を越えています。言葉づかいからして『祈りの書』なのです」

     *

 ――その憲法も来年の5月3日で施行70年になります。戦争の記憶も薄れる一方です。

 「日本で、憲法は非常に大事にされてきました。いろいろと文句をつけられ、『改定したい』という人もいる。でも、改憲がどんなに大きなステップかをみんな分かっている。つまり、約70年の戦後を憲法とともに過ごしてきて、身についているのです。私はそれが一番貴重だと思います」

 ――しかし、改憲派は、憲法が敗戦後、占領下で制定されたことを問題視しています。

 「憲法が尊重されるには、制定者の権威が必要です。憲法制定当時の権威とは何か。率直に言うと、米国中心の連合国軍総司令部(GHQ)です。でも、日本人はその権威を受け入れました。それは、米国が自国の利益だけでなく、より普遍主義的な理念、つまり全世界の正義、自由、民主主義を掲げていたからです。だから権威があったのです」

 「憲法と米国の理想と言えば、『人民の人民による人民のための政治』というリンカーン米大統領の『ゲティズバーグ演説』が思い浮かびます。あの演説、どこでなされたかご存じですか」

 ――どこでしょう。

 「南北戦争の戦没者が眠る墓地の前です。米国の戦争で、60万人という最大の死者を出したのが南北戦争です。その戦場だったゲティズバーグを国有墓地にする献納式で、リンカーンは戦没者に新しい民主主義を誓ったのです。実は、この演説の要素は日本の憲法にも入っています。前文の『その権威は国民に由来し』は『人民の』、『その権力は国民の代表者がこれを行使し』は『人民による』、『その福利は国民がこれを享受する』は『人民のための』です。戦争の惨禍を経験し、戦没者に対して新しい民主主義を誓う、という点は日本国憲法とゲティズバーグ演説に共通しています」

 ――米国でも議会などで「unconstitutional」(違憲)という言葉が飛び交う、と聞きます。「違憲」が重い意味を持つ国なのですね。

 「米国の憲法は国内でも尊重されていますが、日本を含む多くの国に影響を与えました。でも大切なのは、米国で憲法ができる以前です。独立までの150年間、いわゆる植民地時代の人々は、自分たちで基本法をつくり、それに合わせて自治社会を建設していました。だから最初の13州は、独立と同時にそれぞれが州の憲法を制定したのです。英語で憲法を意味する『constitution』には『構成』とか『組み立て』といった意味もある。それで自分たちの社会を組み立てていくという経験をずっと積み重ねてきた。そういう『身体感覚』があったから憲法が尊重されているのです」

 「ただ、そんな国はあまり多くありません。憲法はイラクやアフガニスタンにもあります。でも、多くの国では洟(はな)もひっかけられません。フランスの憲法は、最初の100年間に十数回も書き換えられました。憲法ができる直前まで、『朕(ちん)は法なり』で王様が法律だった国ですから、革命と同時に憲法をつくっても身体感覚が伴わなかったんだと思います」

     *

 ――日本で、憲法を変えようという声が、いまこの時代に大きくなったのはなぜでしょう。

 「終戦直後に人々の目前にあった屍のリアリティーがなくなったからじゃないでしょうか。改憲を唱える安倍晋三首相は戦後生まれです。何百万人という犠牲を前にして世界に誓ったリアリティーを感じられなくなった世代が、政治の中枢にいるという状況です」

 「実は、日本に限らず、保守のど真ん中を担っていく王道が、憎たらしいけれどデンとしっかり構えている、という時代ではなくなった、と感じています。米国も今の大統領選をご覧の通りです。民主党では型破りな社会主義者サンダース氏(上院議員)が人気を集め、共和党もトランプ氏のようなとんでもない人が指名獲得を確実にしている。党の主流を担う人がいない。私の言葉で言うと『正統』(オーソドクシー)が陰っているんです」

 「本来なら、まず正統があって、その正統に対するアンチテーゼとして『異端』があるものです。なのに、正統がみな腰砕けだから、あちこち異端だらけになってしまった。群雄割拠で『異端』とすら言えないほどでしょう。そういう状態が、日本でも米国でも起こっています」

 ――何が「正統」か、だれが決めるんですか。

 「だれも決めません。『正統』は、本来的にはみんなが当然の前提としているもので、ふだんは意識されません。だけどあるとき、自分たちが信じてきたものは何か、依拠してきたものは何かと考える時代が来る。で、いったんそうなると、『正統』はかつてのような信頼感を失ってしまう。『それでもやっぱり俺は正統なんだ』って言い募る者が出てきて、当然の前提であるはずの『正統』を、議論で証明せざるを得なくなる。それがいまの憲法を巡る議論の根本にあると思います」

 「憲法を巡っては、これまでも9条の問題などいろいろありましたが、憲法が大切だという認識そのものはだれも疑ってこなかった。いまも権威はありますが、改憲の動きが強まり、『これがやっぱり正統なんだ』と、一生懸命に言わなきゃいけなくなっています」

     *

 ――東アジア情勢が不安定で、テロの脅威もある。世界経済の先行きも読めない。もはや70年前の理想主義では立ちゆかない、という意見もあります。

 「米国の独立宣言にも『ALL MEN ARE CREATED EQUAL』(すべての人は平等につくられた)とありますが、独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンは奴隷所有者で、奴隷の女性に子どもまで産ませています。言っていることとやっていることが全然違うんです。でも、彼が残した『平等』という言葉があったから、100年後の奴隷制度廃止が実現し、女性の権利も認められてきた。そして公民権運動も進んだのです」

 ――理想は分かりますが、現実に対応するのが政治です。

 「理想は、絵に描いた餅じゃありません。すぐには実現しませんし、現実と違うって非難もされる。だけど、やがてそれが歴史を動かす力にもなる。だから、いま現実がこうだから、どこかへすっ飛ばしてしまえばいいじゃないか、というふうには私には思えない。理想を掲げておく理由は、あると思います」

 ――でも改憲に意欲的な安倍政権は一定の支持をされています。

 「選挙の際の公約はパッケージとして示されるので、個別にどの政策が支持されているかは分かりません。近現代の政治は手続き的な正統性にすごく偏っています。選挙で数さえ集まれば、何でもやれる。デュープロセス(法による適正手続き)を踏んで票数だけ集めれば、手続き的には正統だ、という主張です」

 ――それが民主主義でしょう。

 「いや、私はそうは思わない。手続き的に正統でも、事実的に正統とは言えないことはあります。人権の問題はその典型で、多数決では決められません」

 「カトリック教会には『カノン法』という近代法の淵源(えんげん)になった長い法伝統があって、知恵のある言葉がいっぱい詰まっています。そのひとつが『イリキタ セッド ヴァリダ』。ラテン語で『合法的ではないけれども妥当』といった意味です。いまの憲法には内容的な正統性がある。手続き的な正統性でそれをひっくり返しても、権威は備わりません。手続き上はたとえ合法だとしても、です」

 (聞き手・望月洋嗣)

     *

 もりもとあんり 1956年生まれ。専門は組織神学。米プリンストン神学大学で客員教授を務めた。著書に「反知性主義 アメリカが生んだ『熱病』の正体」。

転載元:http://digital.asahi.com/articles/DA3S12342541.html




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テーマ : 伝えたいこと・残しておきたいこと ジャンル : 日記

最近の北東アジアにおける安全保障環境の変化を前面に押し出して、「新鮮」な危機感に訴える傾向も顕著である。こういう流れのなかで9条を動かすのは、危険きわまりないといわなくてはならない。

1916年元旦、大阪朝日新聞の第1面に掲載されたのが、戦前を代表する憲法学者・佐々木惣一の論説「立憲非立憲」であった。同論文は、1回の休載を挟み、18回連続で1面に掲載された。同じ頃、彼の親友・吉野作造は、「民本主義」を提起した記念碑的論文を発表している(「中央公論」16年1月号)。それから1世紀の記念すべき年の晩秋に、私たちは日本国憲法公布70周年を迎えることになる。にもかかわらず、立憲主義の定着を祝うべきこのときに、〈立憲・対・非立憲〉が再び対立軸となっているのである。

 改憲を唱える人たちは、憲法を軽視するスタイルが身についている。加えて、本来まともだったはずの論者からも、いかにも「軽い」改憲発言が繰り出される傾向も目立つ。実際には全く論点にもなっていない、9条削除論を提唱してかきまわしてみたりするのは、その一例である。日本で憲法論の空間を生きるのは、もっと容易ならぬことだったはずである。

 ここでは、逆に「重さ」を感じさせる一例として、77年に出された一つの最高裁判決をひもといてみたい。当時の長官は藤林益三。元々彼は、佐藤栄作内閣が最高裁を保守化させようと躍起になっていた時期、切り札として送り込まれた企業法務専門の弁護士だ。実際、リベラルな判決が相次いでいた公務員の労働基本権の判例の流れを「反動」化させるのに大きな勲功をあげた。その彼が定年退官直前に担当したのが津地鎮祭事件であった。津市が体育館の起工にあたり地鎮祭費用として公金から8千円弱の支出をし、憲法の政教分離原則に違反するとして争われた事件で、最高裁の多数派は「合憲」の結論になった。

 しかし、この事件を「法律家人生をかけてとりくんだ」とのちに振り返る藤林は、裁判長ながら「違憲」の反対意見に回る。しかも、「違憲」派5人の共通の反対意見に加えて、さらに1人で追加反対意見を書いた。藤林が明記して断っているように、追加反対意見の前半は、内村鑑三が創始した無教会主義のキリスト者・矢内原忠雄の文章を、ほぼ一字一句「写経」することで成立している。

 矢内原は、戦前、東京帝大における「植民政策」の講座担当者として、日本の植民地主義に加担するという葛藤を抱えながら、雑誌などでの政府批判を理由に、37年には辞職に追い込まれた反骨の人である(矢内原事件)。藤林が引用したのは、矢内原が戦後に書いた「近代日本における宗教と民主主義」。言論弾圧に直面して日本社会と丸腰で向き合った経験をもつからこその、迫力ある文章だ。

     ■     ■

 矢内原は、戦後における「公」の再編過程を振り返る。第1段階は、終戦後も治安維持法によって投獄されたままだった哲学者・三木清の獄死という悲劇をきっかけに、連合国軍総司令部(GHQ)が45年10月に出した「自由の指令」だ。これにより、「私」の領域における思想の自由と、一般私人の政権批判の自由を回復した。

 35年の天皇機関説事件以前は、神道式の儀礼と皇室の祭祀(さいし)によって演出された「公」と、「私」の領域における思想・信仰とは、どうにかこうにか切り分けられていた。それを支えていたのが、佐々木や美濃部達吉ら立憲主義学派の憲法学であった。とりわけ、国家を法学的に叙述する文法を堅持した美濃部の天皇機関説の冷静さが、公私の境界線の論理的な支えになっていた。

 ところが、「事件」によって立憲主義憲法学が葬り去られ、機関説支持だった政府は、2度にわたる国体明徴声明を余儀なくされた。境界線は決壊し、「国体の本義」が「私」の世界にとめどなく浸入した。この境界線を「自由の指令」は回復したのであった。その延長線上に、集会・結社・言論・出版その他一切の表現の自由を保障する、現憲法21条はある。

 第2段階は、GHQが12月に出した「神道指令」であり、信教の自由を保障するとともに、国家神道を政治社会から切り離した。そして、矢継ぎ早の第3段階は、翌46年元旦に出された、天皇のいわゆる人間宣言である。それぞれ、現憲法20条、89条の政教分離原則と第1章の象徴天皇制に引き継がれた。矢内原は、日本の政治社会を、かつて「国体」色に染め上げるために活用された演出装置が、二つとも外された点に注意を喚起する。これらによって、ただ単に「公」と「私」の境界線が確保されたのみならず、「公」それ自体の無色透明化が図られた。これで、立憲主義が想定する政治社会は、ひとまず完成である。

     ■     ■

 藤林長官は、ここで引用を止める。しかし、読ませたかったのはその先であろう。そのためにこそ、出典を明示しつつ、あえて他人の文章を「写経」する、という異例の手段を採ったに相違ない。引用されなかった部分。そこに書かれていたのは、矢内原にとって宿命的な論点だった、植民地主義と軍国主義の論点である。彼の理解によれば、自由の指令も神道指令も人間宣言も、植民地主義と軍国主義の過去を清算するためのプロセスであったのであり、これにとどめを刺したのが憲法9条であることは、いうまでもない。

 ここから明らかになるのは、9条がまず何よりも、長らく軍国主義に浸(つ)かってきた日本の政治社会を、いったん徹底的に非軍事化するための規定である、という消息である。それにより、「公共」の改造実験はひとまず完成し、この「公」と「私」の枠組みに支えられる形で、日本の立憲主義ははじめて安定軌道にのることができた。結果オーライであるにせよ、70年間の日本戦後史は、サクセスストーリーだったといってよい。

 しかし、こうした段階を踏むことで、かつて軍国主義を演出した何系統かの言説が公共空間から排除され、出入り禁止の扱いになった。もちろん憲法尊重擁護義務は「公共」「公職」にのみ向けられており、国民には強制されていない。それらの言説は、私の世界においては完全な自由を享受できる。けれども「戦後改革」から日本国憲法に受け継がれた諸条文がいわば「結界」として作用して、立憲主義にとって危険だとみなされる一連の言説を、私の領域に封じ込め続けているのは事実だ。

 その意味で、封じ込められた側からいえば、日本国憲法が敵視と憎悪の対象になるのは、自然であるといえる。きわめて乱暴にいってしまえば、日本国憲法という一個の戦後的なプロジェクトには、少なくとも政治社会から軍国主義の毒気が抜けるまで、そうした「結界」を維持することで立憲主義を定着させる、という内容が含まれているのである。

     ■     ■

 ところが、私の領域に封じ込まれていたはずの一連の言説が、ネット空間という新しい媒体を通じて、公の世界に還流し始めた。それに初めてふれて新鮮な印象を抱く人が、比較的若い世代に増えてきたようである。これを原動力にして、この際「結界」を壊してしまおうと考えている勢力もある。戦後、対外的危機は、実は一度ならずあったはずなのであるが、最近の北東アジアにおける安全保障環境の変化を前面に押し出して、「新鮮」な危機感に訴える傾向も顕著である。

 こういう流れのなかで9条を動かすのは、危険きわまりないといわなくてはならない。日本の立憲主義を支える結界において、憲法9条が重要なピースをなしてきた、という事実を見逃すべきではないのである。もちろん、9条は、どんな国でも立憲主義のための標準装備である、という性質のものではない。しかし、こと戦後日本のそれに関する限り、文字通り抜き差しならないピースをなしているのであり、このピースを外すことで、立憲主義を支える構造物がガラガラと崩壊しないかどうかを、考えることが大切である。

 それにしては、あまりにも無造作な9条論が、目立つ。9条は、とかく安全保障の局面だけで手軽に語られるが、決してそれだけの条文ではない。ただ、その一方で、世論調査による限り、9条改正は危険ではないかという直観が、おそらくは皮膚感覚のレベルで広がりつつあるのも事実である。すでに述べたように、この直観には根拠がある。私たちが生命・自由・幸福を追求する枠組み全体を支える9条をもっと慎重に扱うことが、国家の安全保障を論ずる前提条件になっている。

 ただし、ここには、一つの問題がある。新しい結界のもとで再編された「公共」は、立憲主義が想定する「無色透明」なそれであるが、そうした「公共」に対して、国民の情熱や献身を調達することは難しい。ありていにいえば、そうした無色透明なものに対して命は懸けられないのである。この点は立憲主義の、それ自体としてのアピール力の弱さを示している。

 この点、矢内原は、政教分離原則は「国家の宗教に対する冷淡の標識」ではなく「宗教尊重の結果」であることを強調し、むしろ「国家は宗教による精神的、観念的な基礎を持たなければ維持できない」ことを強調した。当然ながら、最もふさわしいのはキリスト教、というのが矢内原の立場だ。近代立憲主義国家は、実はキリスト教による精神的基礎なしには成り立たないという。実は藤林も無教会主義の敬虔(けいけん)な信者であった。

 欧米の憲法史にそっていえば、矢内原らの見方は、かなりあたっている。しかし、少なくとも理論上は、「公共」はあらゆる世界観に対して中立的でなくてはならない。この点において、他のリベラル派判事4人は、藤林と袂(たもと)を分かつことになった。彼らにとって、公共をキリスト教の信仰で色づけることには、賛成できなかった。

 こうした文脈で注意されるのが、第1次安倍政権の教育基本法改正による「愛国心」教育の強調である。国を愛するというのは自然な感情であり、否定のしようがない。しかし、それを国家が強要するのはまた別の話であって、ある特定の価値によって、しかも命を懸けるに値する公を染め上げようというのであれば、それは日本の立憲主義にとって致命傷になる。現代版「立憲非立憲」の戦線は、ここにもあるのである。

     *

 いしかわけんじ 1962年生まれ。東大教授。編著に「学問/政治/憲法 連環と緊張」など。「立憲デモクラシーの会」呼びかけ人の1人。


転載元:http://digital.asahi.com/articles/DA3S12339723.html?rm=150


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清貧の政治思想・・「世界で一番貧しい大統領」前ウルグアイ大統領、ホセ・ムヒカさんの言葉「みんな誤解しているね。私が思う『貧しい人』とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ。でも私は少しのモノで満足して生きている。質素なだけで、貧しくはない」

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質素な暮らしぶりから、「世界で一番貧しい大統領」として注目を集めた南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領が、近く出版社などの招きで初来日する。「清貧の思想」を地でいく農園暮らしの根っこには、いったい何があるのか。いまも上院議員として、国民か
ら熱い支持を受ける政治家の自宅を訪ね、その原点を聞いた。

《首都モンテビデオから車で30分。畑のわきの小さな平屋で、ムヒカ氏は上院議員の妻と2人で暮らす。愛車は1987年製の昔懐かしいフォルクスワーゲン。自ら家事をし、畑も耕す。秋を感じる南半球の3月。トレパン姿で出てきたムヒカ氏が、庭のベンチに腰を下ろした。》

 ――大統領公邸には結局、引っ越さなかったそうですね。

 「当たり前だよ。私はもともと農民の心を持って生まれた。自然が大好きなんだ。4階建ての豪邸で30人からの使用人に囲まれて暮らすなんて、まっぴらだ」

 ――アラブの富豪が、あなたの愛車に100万ドル払うと購入を申し出た噂(うわさ)を聞きました。

 「本当の話だ。息子が珍しい車を集めていると言っていたな。もちろん断ったさ。あの車は友人たちからもらった大事な贈り物だ。贈り物は売り物じゃないんだよ」

 ――「世界で一番貧しい」という称号をどう思いますか。

 「みんな誤解しているね。私が思う『貧しい人』とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ。でも私は少しのモノで満足して生きている。質素なだけで、貧しくはない」

 「モノを買うとき、人はカネで買っているように思うだろう。でも違うんだ。そのカネを稼ぐために働いた、人生という時間で買っているんだよ。生きていくには働かないといけない。でも働くだけの人生でもいけない。ちゃんと生きることが大切なんだ。たくさん買い物をした引き換えに、人生の残り時間がなくなってしまっては元も子もないだろう。簡素に生きていれば人は自由なんだよ」

 ――2012年にブラジルの国連会議(リオ+20)でした演説は、日本で絵本になりました。

 「このまま大量消費と資源の浪費を続け、自然を攻撃していては地球がもたない、生き方から変えていこう、と言いたかったんだ。簡素な生き方は、日本人にも響くんだと思う。子どものころ、近所に日本からの農業移民がたくさんいてね。みんな勤勉で、わずかな持ち物でも満ち足りて暮らしていた。いまの日本人も同じかどうかは知らないが」

 《60~70年代、ムヒカ氏は都市ゲリラ「トゥパマロス」のメンバーとなり、武装闘争に携わった。投獄4回、脱獄2回。銃撃戦で6発撃たれ、重傷を負ったこともある。》

 ――軍事政権下、長く投獄されていたそうですね。

 「平等な社会を夢見て、私はゲリラになった。でも捕まって、14年近く収監されたんだ。うち10年ほどは軍の独房だった。長く本も読ませてもらえなかった。厳しく、つらい歳月だったよ」

 「独房で眠る夜、マット1枚があるだけで私は満ち足りた。質素に生きていけるようになったのは、あの経験からだ。孤独で、何もないなかで抵抗し、生き延びた。『人はより良い世界をつくることができる』という希望がなかったら、いまの私はないね」

 ――刑務所が原点ですか。

 「そうだ。人は苦しみや敗北からこそ多くを学ぶ。以前は見えなかったことが見えるようになるから。人生のあらゆる場面で言えることだが、大事なのは失敗に学び再び歩み始めることだ」

 ――独房で何が見えました?

 「生きることの奇跡だ。人は独りでは生きていけない。恋人や家族、友人と過ごす時間こそが、生きるということなんだ。人生で最大の懲罰が、孤独なんだよ」

 「もう一つ、ファナチシズム(熱狂)は危ないということだ。左であれ右であれ宗教であれ、狂信は必ず、異質なものへの憎しみを生む。憎しみのうえに、善きものは決して築けない。異なるものにも寛容であって初めて、人は幸せに生きることができるんだ」

 《民政復帰とともに85年に釈放されたムヒカ氏は、ゲリラ仲間と政治団体を創設。89年にいまの与党、左派連合「拡大戦線」に加わった。下院、上院議員をへて昨年まで5年間、大統領を務めた。》

 ――有権者はあなたに何を期待したのでしょう。

 「自分たちの代表を大統領に、と思ったのだろう。特に貧しい層やつつましい中間層がそうだ。特権層には好かれなかったが」

 「貴族社会や封建社会に抗議し、生まれによる違いをなくした制度が民主主義だった。その原点は、私たち人間は基本的に平等だ、という理念だったはずだ。ところが、いまの世界を見回してごらん。まるで王様のように振る舞う大統領や、お前は王子様かという政治家がたくさんいる。王宮の時代に逆戻りしたかのようだ」

 「私たち政治家は、世の中の大半の国民と同じ程度の暮らしを送るべきなんだ。一部特権層のような暮らしをし、自らの利益のために政治を動かし始めたら、人々は政治への信頼を失ってしまう」

 ――実際、既成政治への不信から米国ではトランプ旋風が起きています。代議制民主主義が機能していないとも言われます。

 「いまは文明の移行期なんだ。昔の仕組みはうまく回らず、来たるべきものはまだ熟していない。だから不満が生まれる。ただ、批判ができるのもそこに自由があるからだろう。民主主義は欠陥だらけだが、これまで人が考えたなかではいい仕組みだよ」

 「ドイツやスイスでも政治に不満を持つ多くの若者に出会った。市場主義に流される人生は嫌だという、たっぷり教育を受けた世代だった。米国でも、大学にはトランプ氏とは正反対の開放的で寛容な多くの学生がいる。いま希望を感じるのは彼らだね。貧乏人の意地ではなく、知性で世界を変えていこうという若者たちだ」

 《かつてウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれ、福祉国家を目指して中間層も比較的厚かった。民政移管後は格差が拡大。01年のアルゼンチン経済危機の余波も受けて不満が高まり、ムヒカ氏らの左派政権誕生につながったとされる。ムヒカ氏の退任前の支持率は65%に達した。》

 ――格差が広がったのは?

 「次々と規制を撤廃した新自由主義経済のせいだ。市場経済は放っておくと富をますます集中させる。格差など社会に生まれた問題を解決するには、政治が介入する。公正な社会を目指す。それが政治の役割というものだ。国家には社会の強者から富を受け取り、弱者に再分配する義務がある」

 「れんがみたいに、みんな同じがいいと言っているわけではないよ。懸命に働いて努力した人が、ほうびを手にするのは当然だ。ただ、いまはどうかね。働いてもいないような1人のために、大勢が汗水たらしている世の中じゃないか。これは気に入らない。富の集積にも限度がある」

 「怖いのは、グローバル化が進み、世界に残酷な競争が広がっていることだ。すべてを市場とビジネスが決めて、政治の知恵が及ばない。まるで頭脳のない怪物のようなものだ。これは、まずい」

 ――ご自身を政治的にどう定義しますか。

 「できる限り平等な社会を求めてきたから左派だろう。ただ、心の底ではアナキスト(無政府主義者)でもある。実は私は、国家をあまり信用していないんだ」

 ――えっ、大統領だったのに?

 「もちろん国家は必要だよ。だけど、危ない。あらゆるところに官僚が手を突っ込んでくるから。彼らは失うものが何もない。リスクも冒さない。なのに、いつも決定権を握っている。だから国民は、国家というパパに何でも指図されていてはいけない。自治の力を身につけていかないと」

 ――日本で何をしたいですか。

 「日本のいまを、よく知りたいんだ。世界がこの先どうなるのか、いま日本で起きていることのなかに未来を知る手がかりがあるように思う。経済も技術も大きな発展をとげた働き者の国だ。結局、皆さんは幸せになれたのですか、と問うてみたいな」

     *


 Jose Mujica 1935年生まれ。左翼ゲリラ、農牧水産相をへて2010~15年に大統領。12年の国連会議での演説は、日本では絵本「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」(汐文社)として刊行された。

 ■取材を終えて

 まるで王様のように振る舞う権力者たちの姿を目にしていると、日本にもムヒカ氏のような政治家が1人でも現れてくれたら、と思う。そんな新党の旗のもとなら、支持も集まるはずだ。「いまだけ、カネだけ、自分だけ」といわれる最近の風潮には、未来なんてあるはずがない、と多くの人が感じているのだから。

引用元:http://digital.asahi.com/articles/DA3S12288362.html?rm=150

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戦後70年。日本が今後憲法九条を本当に実行するということを国連で宣言するだけで、状況は決定的に変わる。またデモでも社会は変わる。
今回は新聞記事ではなくて、全面広告ですが、
戦後70年目の今日、哲学者、柄谷行人氏のご意見は、
まさしくごもっともだと思いました。

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「国は信用ならない。他人は頼りにしない。自分で考え決断する。平和を根づかせるのは忍耐と知恵。」ドイツ文学者・エッセイスト 池内紀氏の言葉

戦後70年、暑い夏が巡ってきた。戦争と平和をみつめる試みが、各地で、また人それぞれになされている。私たちはどこへ向かおうとしているのか。あくまで一文学者の歩いてきた道のりを通して、記してみたい。

 生まれは昭和15(1940)年。時の政府が音頭をとり、国民こぞって「紀元は2600年」などと称した年である。もの心ついたころ、戦争は終わっていた。うぶ声をあげたばかりの戦後民主主義のなかで教育を受けた。

 小学校の担任はガリ版刷りの名簿をひろげ、「イケウチ・キー」と大声で呼んだ。「オサム」と読むのだと知ると、「モトエ!」と自分に号令をかけた。礼の仕方が独特で、背筋をピンとのばし、首だけチョイと下げる。ずっとのちに私はそれが、陸軍の下士官に通例の礼の仕方だと知った。

 担任はつっかえつっかえしながら労働基準法やリンカーンや民主主義の話をした。私たちはそれよりもセレベス島のジャングルや連合艦隊の話を聞きたがった。先生もその方がずっと得意なようで、目がキラキラして雄弁になった。

 おそらく戦後教育史のなかで、もっとも混乱していた時期だったのだろう。古い革袋に新しい酒を盛ろうとして、おおかたがこぼれ落ちた。新しい理念を伝えるべき人たちの大半が古い世代だった。いかにもそのとおりだが、「モトエ!」の先生が、いまやまわりへの気づかいなしに、連合艦隊の最期について話ができる。その点で、あきらかに新しかった。教え方は下手くそだったが、とほうもない人生体験をしてきた人たちであり、セレベス島のジャングルは少年の夢をかき立てた。

 わが家では、戦死者こそ出なかったが、まず祖父が死んだ。旧家の当主は地区の役員をしており、戦中は率先して戦時公債を買った。金属類の供出には、蔵の窓の鉄の桟まで鉄ノコで挽(ひ)いて応じた。つづいて祖母が、さらに父が病死した。祖父のあとを継いだ父は、誰よりも熱心に戦後の農地解放に協力した。七割がたを小作にわたし、不便で痩せた田をちょっぴり自家用に取っておいた。

 戦時公債は紙クズになった。蔵の窓が鬼の乱杭歯状になったのは、わが家だけだった。小作人の一人は農地解放で得た土地を、朝鮮戦争の際に鉄工所用地に転用して大儲(おおもう)けした。母はきっと祖父や父のいき方を批判的にながめていたのだろう。しょせんは旧家のボンボンで、「エエ格好シイ」と思っていたのではあるまいか。「国の言うことなど信じるな」とわが子に教えた。「人にたよるな」とも言った。自分と五人の子どもが残されたとき、猛然と働き出した。

 高校に進んだ春、わが家の希望の星だった兄が赴任先で事故死した。家族で遺骨を引きとりに行って、夜行列車でもどってきた。駅売りの新聞には「もはや“戦後”ではない」の大見出しがおどっていた。昭和31(1956)年の経済白書をきっかけにして、そんな言葉が流行した。日本が国連に加盟した。ハンガリー動乱があった。スエズ戦争が勃発した。

 もどりの車中で気がつくと、足元に骨箱がころがっていた。家族全員が眠りこけていた。眠りはいかなる悲しみよりも強いのである。私は骨箱をひろい上げて、膝(ひざ)にもどした。そしてボンヤリと考えていた。高校を出たら、どこか遠くへ行こう。海の向こうの外国がいい。そして日本のことなど忘れてしまおう――。

     ■     ■

 十年あまりのちのことだが、私はオーストリアのウィーンにいた。あるユダヤ系の文明批評家を研究テーマにしていた。国家が武力に訴えて戦争を始めるとき、どれほどウソがまかり通るものか。その文明批評家は第1次世界大戦中に出廻(でまわ)ったウソの記録を徹底して集め、およそ類のない悲劇に仕立てて後世に残した。そのドラマを訳すかたわら、ウソの実証を求めて図書館へ通っていた。

 おりしも隣国チェコで大胆な自由化の運動が進行中だった。「人間の顔をした社会主義」をスローガンに、新指導部が共産党による権力独占の否定を打ち出した。「プラハの春」と呼ばれ、集会と結社の自由、検閲の廃止、出国の自由をうたい、圧倒的な国民の支持のもとに着々と実現へと向かっていた。

 そんなある日、ラジオから異様な音が流れてきた。雄叫(おたけ)びのような群衆の声だが、あきらかにサッカーの対抗戦ではない。あいまにカン高いレポーターの声がまじっている。状況は刻々と変化していた。その証拠のように、ときおりレポーターの声がとぎれ、人の声とも機械音ともつかぬ地鳴りのようなひびきだけが聞こえてきた。

 1968年8月20日、ソ連軍を中心とする東欧五カ国軍がチェコ領に侵入。首都プラハに向かっていた。民衆がプラハの広場を埋めつくした。ウィーンでは時間刻みに号外が舞った。誰もが食い入るように号外を見つめ、ラジオに聴き入っていた。歴史がきしみながら動いていた。ヨーロッパの小国は、とりわけきしみに敏感だ。それは戦車の音とともにやってくる。

 ウィーンの大通りはひとけがなかった。カフェでは息をひそめたささやきが交わされていた。ハンガリー動乱の流血が頭にあった。「プラハの春」の立役者が殺されたという噂(うわさ)が流れた。正確にいうと「殺されたという噂が流れているという噂」である。噂であるかぎり信用ならないが、噂が流れるからには、何らかの根拠があると主張する人もいた。

 二十代だった私は、そのときはじめて歴史を肌身で知ったように思った。石畳に耳をつけると、はっきりと地鳴りがして、地ひびきが伝わってくる気がした。政治権力のコマ一つがはじかれると、国家がなだれを打つように動き出し、昨日までの秩序が崩壊して、日常が一挙に崩れる。歴史が動く一瞬であって、それを境に、すべてがガラリと変化し、もはや誰の手にもおえない力が前へ前へと押しやっていく。

 私には「戦後70年」という言葉は、あまり意味がない。むしろ戦後20年である。その間にいまの考え方、生き方、人との対し方のおおよそを身につけたような気がする。以後の歳月は本質的に、ほとんど自分を変えなかった。母が口癖にしていたとおり、国は信用ならないし、他人は頼りにしないのがいい。勉強をするのも体験をつむのも自分のため、人の話はよく聞いても、決めるときは自分の考えどおりにする。「戦後50年」を自分だけの目じるしにして、55歳でサラリー生活を切り上げた。

     ■     ■

 ながらく外国文学の教師として、テクストを読む訓練をした。だから自信をもって言えるのだが、人を動かすのは、事実そのものではないのである。事実についての情報、情報をめぐるオピニオンこそ人を動かす。そして情報はいつだって「正しく」なく、オピニオンは永遠に「正しく」ない。それが証拠に、情報はつねに新しくもたらされ、オピニオンは際限なくあふれ出るではないか。

 情報が整理され、合理的に説明されると、「真相」がわかるのか。久しく「読む訓練」をしてきた者からいうと、語られていること以上に、語り方が真意をあらわしているものである。時の権力者、また権力にすり寄る人々の語り口を、少し意地悪く見張っているのも悪くない。気をつける点として、つぎの三つがあるような気がする。

 1、主題をすりかえる。

 2、どうでもいいことにこだわる。

 3、小さな私的事実を織りこむ。

 丁度(ちょうど)いい機会だ。記念年に際して、ものものしく発表される「作文」を採点してみてはどうだろう。

 「ドイツ文学者」を肩書としてきた人間として、ふつうの人より多少は深くヨーロッパとつき合ってきた。厳しい冷戦を含む戦後史のなかで、ねばりづよく議論をかさね、条約を結んで確認し、EC(ヨーロッパ共同体)へと発展させるのを見つめてきた。資源、外交、安全保障をめぐり、半世紀に及んで、たえず話し合って協調を深め、EU(ヨーロッパ連合)を実現させた。ファシズム、ナチズムの暴虐を許した過去への深い反省が基盤にあってのことである。

 さらにもう一つ、哲学者カントの「永遠平和のために」が背骨の役目を果たしている。二二〇年前に世に出た小さな本だが、それは長い歳月を経て国際連合を生み出すもととなり、日本の憲法においては、画期的な「九条」の基本理念となった。

 十年ばかり前になるが、なにやら世の雲行きがあやしくなりかけたのを見て、心ある編集者にせっつかれ、私はこれまでおよそ無縁だったカントにとりくみ、二年がかりで「永遠平和」を日本語にした。哲学用語をいっさい使わず、なるたけ平易な訳語で通した。本になったとき、オビに編集者の手で、「16歳からの平和論」と添えられていた。

 そこには国どうしが仲良くといった情緒的な平和は、ひとことも述べられていない。カントによると、隣り合った人々が平和に暮らしているのは、人間にとって「自然な状態」ではないのである。むしろ、いつもひそかな「敵意」のわだかまっている状態こそ自然な状態であって、だからこそ政治家は平和を根づかせるために、あらゆる努力をつづけなくてはならない。

 そのような平和を根づかせるには、ひとかたならぬ忍耐と知恵が必要だが、敵意のわだかまる「自然な状態」を煽(あお)り立てるのは、ごくたやすい。カントによると、その手の政治家はつねに「自分の信念」を言い立て、「迅速な決断」を誇りつつ、考えていることはひとえに、現在の世界を「支配している権力」に寄りそい、ひいては「自分の利益」を守ることだという。いまさらながら、この哲学者の理性のすごさを思わずにはいられない。

 つい先だって、その小さな本がもどってきた。「16歳からの平和論」のオビも同じ。ただ大きく「復刊」の二字が加わった。戦後70年をめぐるキナくさい時代状況が甦(よみがえ)らせたわけである。だから訳者には、うれしさ半分といったところだが、せっかくだからリュックにカント先生をつめて山へ行き、爽快な森の風をあびながら、わが訳文の語り口を点検した。

     *

 いけうちおさむ 1940年、兵庫県姫路市生まれ。96年まで東大教授。著書に「ゲーテさんこんばんは」「恩地孝四郎 一つの伝記」「戦争よりも本がいい」など。

引用元:http://digital.asahi.com/articles/DA3S11914897.html


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気が付けば、六十路.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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