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「“最期のとき”を決められない」を観て・・人生の最期のときに延命措置を希望するかしないかは、自分で意思表示が出来るうちに決めておいて、健康保険証サイズのもしもノート(リビング・ウィル)を財布に必携していれば良いだけの話なのではないでしょうか。
今年は例年になく喪中はがきが多く届く我が家です。
それでも、亡くなられた方々の年齢を見ると、
98歳、96歳、92歳、86歳等々で、
友人知人のご両親様が多いのですが、
その中に一枚だけ、今では年賀状だけのお付き合いになっていた、
夫の大学時代の友人(66歳)が亡くなったとの喪中はがきがありました。
すると夫が、
「問題は亡くなった年齢じゃないよ。最期の日までお元気だったのか?
それとも長患いで寝たきりだったのか?それが一番の関心事だよな・・。」と、
今までは自分の死及び終末期医療についてはタブー視していた夫が珍しく、
老いと死について自分から、そういう話をしてきました。
少しづつですが、自分の死に付いて考え始めたようです。

そこで私は、これはチャンス!とばかりに、夫がゴロゴロしている居間で
わざとらしく録画しておいたクローズアップ現代
“最期のとき”を決められない」の視聴を始めてみました。


録画機器は居間にしかないので、嫌でも見ざるを得ない夫。
「またそんな番組かい?」と言いつつも一緒に観ていて、
観終わってから夫が言いました。

「僕はあんな風になってまで生きていたくないな。
面倒なので書面に残す気は無いけど
無駄な延命治療はしないで、
死んだら使える臓器は必要な人に全部上げてくれていいよ。」

これで、夫の意思を確認できました。
私よりも先に夫が終末期を迎えても、
“最期のとき”は決められる」ことになりましたが
臓器移植について、年齢制限はないのだろうか?
との疑問が持ち上がりました。
使い古した臓器でもお役に立つのかしら?と思って調べたら、
「提供者の年齢は、おおよそ「心臓=50歳以下」、
「肺=70歳以下」、「腎臓=70歳以下」、
「膵臓=60歳以下」、「小腸=60歳以下」とされています。
しかし個人差がありますので、この年齢を越えていても
医学的判断により提供可能な場合もあります。」
だそうですので、もちろん検査して貰って可能であれば、
夫の遺志でもあるので、ヨレヨレ臓器であっても臓器提供をします。

ところで、話が逸れますが、
私と親交のあるシニアorシルバー世代の皆様方は、
日本人の平均寿命が2013年度では、
女性は86.61歳、男性は80.21歳なので、
自分たちもその年齢前後までは確実に生きられる!
と思っている人が多いようですが、
これは数字に因る単純なマジックで、
約半数の人は平均寿命までは生きられずに死を迎え、
残りの約半数の人は平均寿命を超えても生きていられるということです。
ですが、老いの現実として、上記の動画「“最期のとき”を決められない
の中の人のような状態で生かされることも覚悟しておかなければなりません。



人生の最期は、比較的苦痛がないと言われている
老衰(自然死)で死ぬのが一番幸せな死に方だとは思いますが、
それに当て嵌る人は、平成17年都道府県別生命表の概況によれば、
男性で2.1%、女性では6.29%です。
ということは、男性で運良く老衰で死ねるのは100人に2人です。
お気の毒さまですが、こればかりは自然の摂理で、
致し方がありませんですわね。(^_^;)

極端な死に方(虐待死や死刑等)で無くても、
病気、事故、自死・・のどれかで、半数の人間は
平均寿命まで生きられずに死んでゆかねばなりません。

その昔、私と同い年のいとこ(一人息子でした)は
20歳で交通事故で亡くなりました。
3年前には知り合いのご夫婦の一人娘が幼子を残して交通事故で亡くなり、
夫の甥は40歳でガン死し、最近では先週、娘のママ友(30代後半)が、
小学生の子二人を残して自死(世間には心不全で死亡と発表)しました

これが、老若男女を問わず、死の現実なのです・・。


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上記画像は私の運転免許証(裏面)、健康保険証(裏面)、
終活セミナーで貰ってきた健康保険証サイズの「もしもノート」の
リビング・ウィルのページ(個人情報の都合上、加工してありますが、
自筆署名部分には、日付、本名、住所、生年月日を署名)ですが、
いつも財布のカード入れに入っています。
私は献体登録をしているので臓器提供はできませんが、
一つの案として、前期高齢者と呼ばれることになる65歳以上の人には
健康保険証や運転免許証の裏面に臓器提供の意志の有無の他に、
延命治療の意志の有無も表示して貰えれば・・と思いました。
「□ 延命してほしい □ 延命しない」にチェックさえしておけば、
どんな状態でも生きたい!と願う人は生かされますし、
延命用の管類に繋がれてまで生きていたくない・・と思う人は、
自然死ができます。

ところが、第三者から視て植物状態と思われていても、
患者の耳は聞こえていて、意識もあるが、体を動かせない・・
だけの人もいるかもしれませんが、それらは運命と思いましょう。(^^;)

また、延命するかしないかは自分で意思表示が
出来るうちに決めておくことが前提条件となりますが、
医療機関も、残される家族や親族も
延命するかしないか?の壮絶な葛藤の淵に立たされることもなく、
死にゆく人の遺志を尊重できると思うのです。

今回は喪中はがきから、我が夫婦の終末期と死を考えさせられましたが、
ときどきでも、自分や身近な人の死を見つめ、考えることは、
限りある生の時間を有意義で豊かにしてくれるのではないでしょうか。

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tag : 臓器提供の意志の有無 延命治療の意志の有無 リビング・ウィル “最期のとき”は決められる “最期のとき”を決められない

医学の限界を知り「人は必ず死ぬ」という事実を受けとめる覚悟を・・そして、最期まで自宅で自分らしくある天寿を迎えたいけれど・・現実は?
先月、我が家から約300mの場所に待ちに待った
「24時間訪問診療」のクリニックが開業しました。
午前中は外来診療で午後からは訪問診療とのことなので、
もし、風邪でも引いたら、一度診察を受けに行こう。
そして、必ず来る我が夫婦の最期のときのために、
院長先生の人物像を把握し、顔繋ぎでもしてこようか・・。
などと、失礼で不埒なことを考えているのですが、
若い頃から、決まって季節の変わり目である5月か6月に
必ず酷い風邪を引いていたのですが、
この数年は水泳にかなりの時間を割いているせいか、
風邪も引かず、なかなか診てもらう機会がない状況にいます。

そして今日、新聞で
(インタビュー)在宅医療で見えたもの・・
医学の限界を知り「人は必ず死ぬ」受けとめる覚悟を・・
最期まで自宅で自分らしくある天寿を支える 

の記事を読んだのですが、
私は『医学の限界を知り「人は必ず死ぬ」という事実を受けとめる覚悟』は
既にできていますが、
「最期まで自宅で自分らしくある天寿」を迎えるには、
在宅介護してくれる家族が必要になります。
今の時代、私と同世代の知人友人の間では、
同じ屋根の下で暮らす複数の家族がいる人は、
数組の夫婦二人暮らしを除き、ほとんどがおひとりさまで、
2世代同居の人は数える程しかいません。

私は夫を先に見送ってから死ぬつもりでいますが、(^^;)
人生は想定外の連続であり、逆のパターンも視野には入れています。
ゆえに、近い将来、我が夫婦のどちらかが確実に一人暮らしを余儀なくされます。
そのとき、独りになった者は、認知症や寝たきりになった場合、
いったい誰に在宅で介護をしてもらえばいいのでしょう?
我が家の場合で言えば、役所窓口での要介護認定(要支援認定を含む)等への
介護保険の申請などは子どもたちも協力はしてくれるでしょうが、
共働きの子どもたちには、家事や介護等はこちら側からは頼めません。

更には、介護度が重度と認定されても、
24時間に渡り、生活援助と身体介護で、
代わる代わるヘルパーさんに来て頂くことは
経済的に無理があります。
また、訪問看護師さんも忙しいらしく、
10分ぐらいしか居てくれない・・
と近所の人がこぼしてました。
2025年には、おひとりさまの高齢者が都市部では爆発的に増え、
地域の数少ない24時間訪問診療医
地域のヘルパー派遣事業所から派遣されるヘルパーだけで、
すべてのおひとりさまの高齢者を支えるのはとても無理です。
言葉のあまり通じない外国人ヘルパーが家事援助に訪れたり、
訪問看護師の滞在時間も数分間になることも否めません。

また、在宅で終末期を過ごすとなると、緊急の場合に
24時間訪問診療医」に連絡をしてくれる
家族の誰かが常時家にいることが必須となります。
結局は、家族の誰かが傍にいなければ、
「24時間訪問診療」のクリニックが近くに開業していても、
最期まで自宅で自分らしくある天寿を迎えることは、
なかなか難しいことのようです。

団塊世代とその前後の世代の方々は、
今から孤立死野垂れ死にの覚悟でもしておいたほうが
いいのかもしれません。
世間では孤立死野垂れ死には、
最悪の最期と捉えられているようですが、
私は必ずしも、そうだとは思っていません。
「人は死に場所を選べず、必ず何処かで息絶えなければなりません。」
そのときのために、折あるごとに自分の最期の時を頭の片隅に
イメージし、また知人等の訃報に触れたときなどに
メメント・モリを思い起こせば、余命宣告されたときなどには
それほど最期のときにジタバタしないように思うのです。
家族に看取られながら「最期まで自宅で自分らしくある天寿」を迎える・・。
これほど幸福な死はないとは思いますが、
全員が全員にそのような最期は望めません。
先日、友人の従兄弟に当たる方(一人暮らしの60歳男性)が
九州から東京に出稼ぎ中にアパートで孤立死していたそうです。

お子様のいらっしゃらない一人暮らしの高齢者は、
体を自由に動かせるうちに兄弟姉妹と行き来をして、
仲良くするしかないでしょう。
兄弟姉妹とも疎遠な方や、子どもも兄弟姉妹も無く、
天涯孤独の高齢者は今からサ高住グループホームを見学して、
場所や入居費用等を調べておくのも、
より良き死を迎えるための一つの手段かもしれません。

人間は老いも若きも、いつかは必ず死ぬのです。
集団的自衛権行使が生きがいの安倍総統閣下も、
御所内でどうなのかは、私には知ることはできませんが、
公の場ではお優しく温かみのあるお言葉がけで、
下々の民たちが平和で健やかなることを祈ってくださる今生天皇も、
私には騒音にしか聴こえない歌もどきらしいものを歌っているらしい
ヲタクのアイドルのAKB48の乙女たちも、
そして、下々の名も無き貧乏婆さんの私にも・・・・
死は平等に訪れます。

若い人は交通事故で死の淵を彷徨いながら息絶えるかもしれません。
高齢者は抵抗力が落ちているため、ガンそのものは縮小しても、
抗がん剤の副作用で重篤な状態に陥り、
そのまま命を落としてしまうことも多々あります。
結論として・・・・
やはり、インタビューで大田医師が述べておられるように、
『医学の限界を知り「人は必ず死ぬ」という事実を受けとめる覚悟』
を持つことが最重要なのではないのでしょうか。
そして、己の死を考えることは、
限りある生の時間を更に豊かにし充実させることでもあるのです・・。

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tag : 訪問看護師 家事援助 24時間訪問診療医 孤立死 野垂れ死に メメント・モリ サ高住 グループホーム

回復の見込みがなくなった時に治療の中止を認める、いわゆる尊厳死法案の提出が検討されている。人生の終わりに、どうすれば尊厳は守られるのか。

■ 深く悩み納得するのが先 映画監督・周防正行さん

 「患者に良かれ」と思い、治療をやめたお医者さんが、告発される。
一度つけた呼吸器は外せない。そんなことがあるのなら、
何らかの法律が要るんだろうなと漠然と思っていました。

 でも、2012年に公開した映画「終(つい)の信託」
をつくるため終末期医療を調べるうち、
「待てよ」と感じるようになりました。
死の迎え方は、人がどう生きてきたかと同じように、
一律ではない。経済的な理由から治療をやめざるをえない場合もあり、
社会システムの問題でもあると気付いたのです。

 取材してわかったのは、
食べられなくなった時に栄養を直接いれる胃ろうをつけた家族も、
つけなかった家族も、どちらも「正しかったのか」と悩んでいること。
そこに正解はなく、あんなに考え、話し合って決めたのだから、
という思いがせめてもの救いになるのでは。
その質と量によって納得するしかないんですよね。

 今の医療現場では、患者や家族と医師らの間で信頼関係を築きにくい。
お互い忙しく遠慮もあるのでしょう。患者や家族がいつでも、
これからのことや不安を相談できる人が病院にいる態勢づくりが、
大事だと思う。患者と医師を結びつけてくれる窓口のような存在がいると、
患者や家族は深く考え、きちんと悩めるようになるのです。

 この人が望む道は何なのか。共通認識を持ち、それを実現するのが
「尊厳ある治療」なんじゃないかな。まずはそれが大事。
良い医療かどうかって、患者や家族がいかに納得できるかにかかっている。
コミュニケーションがうまくとれないとだめなんです。

 法って、社会秩序を維持するためのものですが、
私たちはいちいち、法律を考えて行動はしません。
「人としてどうあるべきか」という倫理によって動きます。

 一方で法律ができると、要件がそろったから、
と深く考えずにすぱっと物事が決まってしまう恐れがある。
治療をやめる結論が簡単に得られ、議論の質も量も薄まってしまう。
極めて個人的な「死」についての考えが、
法律に引っ張られる怖さもあります。
だから医療に司法は介入しないほうがいいと思うようになりました。

 法律ができたら争いはなくなるんですかね? 
これとこれを満たしているから、絶対罪に問われませんと進めても、
患者の家族から「おかしかったのでは」と問われることは、
出てくると思います。
逆に、この患者にとって何がベストなのかを話し合うことができれば、
法律に頼らないですむ。

 尊厳死法案に障害者の団体が反対していると聞きます。
「受けたい治療が受けられず、切り捨てられるんじゃないか」
といった不安の声に耳を傾け、その思いを反映させないといけない。
そういう声をきちんと聞けない社会は、良い社会とは言えないでしょう。

 一方で多くの人は、死の迎え方について、深くは話し合っていないですよね。
僕も「無理な治療はやらないでいい」と妻には言ったつもりでいたんです。
なので、ある会見で「彼女はわかっていると思います」と言うと彼女は
「えっ。聞いてない」と言い、周囲は大爆笑。
「そっか。やっぱり文書にしないとだめなんだな」と思いましたね。
でも今も、文書は書けていません。

 彼女がそうなったらどうするか。
追い詰められないとわからないですが、
お医者さんとやりとりをして、
彼女にふさわしい治療や死の迎え方を一生懸命考えて決断する。
そうするしかないですよね。(聞き手・辻外記子)

     *

 すおまさゆき 56年生まれ。妻は俳優の草刈民代さん。
代表作に「Shall we ダンス?」「それでもボクはやってない」。
最新作「舞妓(まいこ)はレディ」は今秋に公開予定。




■ 静かな看取り、条件整備を 内科医・日本尊厳死協会副理事長、鈴木裕也さん

 救急車で急病人が病院に運ばれてくる。
医師は人工呼吸器などをつけて全力で治療をし、助けようとする。
その結果、回復して退院する人もいれば、亡くなる人もいる。
しかし、救命治療がいつしか延命治療に変わり、回復の見込みがなく、
意識のない植物状態になってしまう人もいる。
私は「不自然な生」と呼んでいます。

 「治りません。(呼吸器などは)外せません」。
医師がそう言い、治療が延々と続く。家族は途方に暮れる。
医学の発達と高齢化により、こうした存在はどんどん増えています。

 北海道や富山の病院で医師が患者の呼吸器を外して死亡し、
殺人容疑で書類送検された事件の後、
不起訴にはなりましたが現場は萎縮したままです。
医師が患者や家族に治療の内容や今後について説明し、
治療の中止を患者側が望んでも、医師は治療をやめない。
そのほうが安全だから、と「ことなかれ」が横行している。
患者にとって不幸なことです。

 一定の条件のもとでは治療を中止しても医師は罪に問われない、
と明確に法律で位置づけることが重要です。法律ができれば、
静かに看取(みと)るための知識や技術を全ての医師が真剣に学び、
取り組むようになります。

 障害者にとっても必要な法律だと考えています。
難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の診断時に医師は、
「進行したら人工呼吸器をつけますか? つけると外せません」
と患者に問うと聞きます。
どうしたいかはつけてみないとわからないことが多いのですが、
途中で治療方針は変更できない。そう宣告されているのです。

 「終末期の医療における意思の尊重に関する法律案」という名称なのに、
尊厳死法案と呼ばれるのが誤解のもとです。
尊厳死を皆に勧めていると勘違いされがちですが決してそうではありません。

 意識がなくなった時に備え、
終末期医療への希望を残しておく書面、リビングウイル(LW)を広め、
それぞれの思いを尊重することがとても重要です。現在の日本尊厳死協会のLWは、
治療への拒否を示すものですが、
これはしてほしいという選択肢も含む内容への見直しの検討を始めました。

 自身の最期を真剣に考え、LWを書く人が増える。
医師がそれを受け止め、患者は安心して望む最期を迎えることにつながる。
そのために必要な法律だと考えています。(聞き手・辻外記子)

     *

 すずきゆたか 43年生まれ。慶応大医学部卒。
埼玉メディカルセンターなどに勤める。元埼玉社会保険病院長。
日本尊厳死協会副理事長・同関東甲信越支部長。



■ 死への誘導にならないか 鳥取大学医学部准教授(宗教学)・安藤泰至さん

 現代医療には、正反対の二つの方向性が混在しています。
ひとつは「不死」へのベクトルです。
新しい臓器に取り換えられないか。老化を止められないか。
「死なせない」ための研究には巨額の予算が割かれます。

 一方で、必要な治療すら受けられない患者がいる状況は深刻です。
経営的に割が合わなければ重症でも追い出される。
そのうえ「尊厳」の有無で線引きをし、
それ以下は切り捨てようとしています。これらは「死なせる」ベクトルです。
仮に「尊厳のない状態」というものがあるとして、
じゃあ、死なせてしまうしか尊厳を保つ方法はないのでしょうか。
医療やケアの問題点をそのままにして、
死にたい人を死なせてあげるのが人道的という考えは危険です。

 もがき苦しむ。チューブだらけで延命させられる……。
「悪い死」のイメージばかりが共有されるようになっています。
「そうなったら死んだほうが幸せ」という幻想を、
医師も患者側も信じようとしているかのようです。
早い段階で割り切ってしまい、「苦悩する力」が弱くなっていないでしょうか。

 尊厳死というレトリックは「たちの悪い宗教」のようなものです。
脅し文句みたいに「そんな姿で死にたいですか」
「事前に自分の意思を表示しておけば悪い死に方はしなくてすみますよ」とささやく。
一方の手で人の不安をあおり、もう一方の手で救いを約束するわけです。
意図的ではないにせよ、結果として死への誘導になっている。

 尊厳死を肯定する側は「死の自己決定権」ということを言います。
米国の一部の州や欧州の中にはすでに、
安楽死や医師幇助(ほうじょ)自殺を合法化したところがあり、
さらに「自殺権」の主張にまで議論は拡張されています。

 もともと自己決定権は米国の公民権運動のように、
社会的に弱い立場の人たちが生きるうえでの選択権として勝ち取ってきたものです。
それは患者の権利運動と結びついていきました。
ところが「死」を選ぶというのは、自分の可能性を開くのではなく、
閉ざす決定です。
しかも医療者が「死なせる」方向で患者や家族に
恣意(しい)的な説明をする恐れも捨てきれません。

 日本には、患者が尊厳を持って生きる権利を保障する法律もありません。
それなのに尊厳死法なんて本末転倒です。
いまの医療のあり方や制度を前提にして発想してはいけません。
広い意味での医療文化を根本から変えていくことが先のはずです。
(聞き手・磯村健太郎)

あんどうやすのり 61年生まれ。
宗教学のほか生命倫理や死生学も専門とする。
編著「『いのちの思想』を掘り起こす」、
共編著「シリーズ生命倫理学第4巻 終末期医療」など。





・私に介護が必要になっても子どもの時間を奪わない。

終末期医療については、望まない延命治療は受けない。


私の近未来の姿と死を自己決定する上で、
上記の二つは外せない必須要項として、
エンディング・ノート終末期医療の要望書に自筆で記し、署名捺印をしている。
それはあくまでも私という人間の個人的な自己決定の権利であり、
現時点では、私の死に関しては、
法による国家の介入は一切望んではいない・・。


「尊厳死法制化を考える議員連盟」の議員たちの名前を見た。
超党派と言いつつ、彼らは、名も無き人々の終末期における命の尊厳よりも、
社会保障費医療費の削減など、
経済的なことしか考えていないと思わざるを得ない人たちばかりだった。
結局は「重度障害(児)者や認知症の高齢者などの、
金(税金)食い虫でもある社会の役に立たない人間のお荷物おろし」
という構図しか見えてこない。


もし、尊厳死法が法制化されたりしたら、まだ見えてこない背景として、
いずれは、臓器提供など、死に関するあらゆる分野に
多大な影響を与えることになるだろうことは、
私のようなど素人でも簡単に予測ができる。


サミエル・ウルマンの「青春の詩」の一節である、
「年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。」
に老いることへの救いを求める人も多いが、
それは決して叶えられぬ、見果てぬ願望でしかないのである。
老いるという現実は非常に厳しく無残で残酷で、
誰しも、高齢者と呼ばれる年齢になれば、
加齢による種々の死に至る身体的病や認知症に罹り、
末期高齢者ともなれば、完全寝たきりになることは避けられない。
介護を必要とする老親にそれなりの資産がある上に、
介護離職でもなんでもしてくれる子どもでも居れば別だが、
大多数の高齢者はなけなしのお金で介護サービスを買って、
嫌でも他者の手を借りなければならなくなる。


日本女性は世界一の長寿らしいが、その世界一の大半を支えているのは、
胃ろうのチューブを付け、紙おむつを当てられ、
一日中、天井を向いたままで、
生きているのか、死んでいるのかさえも分からないような、
完全寝たきりの女性高齢者たちである。
介護保険が始まる直前、県主催の介護ヘルパー資格取得の実習で、
或る特別養護老人ホームへ行ったときに見た光景であるが、
6人部屋の彼女たちに、死の尊厳はおろか、生の尊厳もあるとは、
私には100歩譲ってもそうは見えなかったし、思えなかった・・。
そして、そのときから、これが私の成れの果てか・・
と背筋に寒気が走ったものだった。

「自宅で家族に看取られながら穏やかに死んでいく........」
と言われると、理想的な死に方のようなイメージを想起させられるが、
それは、三世代同居が普通であった昭和30年代頃までの話であり、
夫婦、もしくは親子単位の核家族どころか、
独居者が増え続けている平成の世においては、
(今上天皇が生身の人間なら、いずれは平成の世が終わることも避けられない事実としてある)
「自宅で家族に看取られながら穏やかに死んでいく........」
のは到底無理な話になる。

厚生労働省のホームページの「在宅医療の推進について」のページには、
『できる限り住み慣れた家庭や地域で療養することができるよう
在宅医療提供体制を整備するための施策を講じています。』

などと嘘ばかり書いてある。
私は政令指定都市に住んでいるが、半径5キロ以内に
在宅医療をしてくれる医療機関は一件もない。

近未来に我が夫婦に待っているのは、
老々介護の厳しさの果てに、どちらかがパートナーを見送り、
残された片割れが、もし私であったなら、
「美しい国、日本」(風景は美しいが、国家は腐りきり、社会は少しも美しくない)
の片隅で、誰にも看取られずの孤立死するのだろうと、今から覚悟をしている。
あと、40年後ぐらいに・・。(^_^)
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テーマ : ひとりごとのようなもの ジャンル : 日記

tag : 終末期医療 延命治療 エンディング・ノート 終末期医療の要望書 社会保障費 医療費の削減 臓器提供義務 サミエル・ウルマン 青春の詩 介護離職

法制化への動きが進んでいる尊厳死法案について考える--人生の最後をどう生きるか。「自分の最期は意思表示できるときに自分で決めておく?」それとも「自分の最期は家族の意思と国家に任せる?」
4月17日の新聞で、記者有論「尊厳死法案 人生の最後をどう生きるか」
の記事が目を惹いたので切り抜きをしておいた。

 終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案。
いわゆる「尊厳死法案」が、早ければ今国会に、議員立法として提出されそうだ。

 私は「延命治療が患者の苦しみを長引かせることがある」と考え、
法案が早く提出されれば良いのにと思ってきた。
だが、超党派の議員連盟ができて9年。いまも反対の声が根強い状況を見るにつけ、
何かが足りないと感じるようになった。

 この法案は、本人が延命治療を望まないことが書面などで明らかで、
回復の見込みがなく死期が間近と2人以上の医師が判断した場合、
延命治療をやめても、医師は責任を問われないというものだ。

 しかし、事実上「死を急がされるのではないか」という不安は消えない。
中でも障害者団体は「生きる権利が奪われる」と強く反対する。
患者本位というが、一部の患者の意思が尊重されるだけではないか。
そんな疑念が、この法案への理解を妨げている。

 米国で始まった「エンド・オブ・ライフケア」という考え方がある。
人生の最終段階を迎えた患者が、どんなケアを受けたいか。
看護師らのチームが、本人の希望の把握に努める。
価値観を重視するため、同じ病状であっても、人によって選択は異なる。
国内でも採り入れる病院が出てきたが、まだ少ない。

 「尊厳ある死」の前に、「尊厳ある人生の最終段階」を担保する、
こうしたケアを広めることが重要だ。

 厚生労働省が昨年度、「終末期」という呼び方を
人生の最終段階」に変えようと提案したのも、
医療行為だけでなく、個人の生き方に着目すべきだとの考えからだろう。

 医療技術の進化と共に、私たちの選択肢は広がる一方だ。
「もう治療は不要。穏やかな最期を迎えたい」という願いと同時に、
「もっと生きたい。頑張る」という思いをかなえる道も必要だろう。
患者に必要な情報を伝え、様々な選択をサポートする態勢づくりを急いでほしい。

 意識障害や認知症のため、本人の希望がわからないという難題もある。
回復の見込みがなくなった時にどこまで治療をしてほしいか、
家族らと事前に話し合い、思いを共有しておくことも大事だ。

 よりよい最期は、それぞれの思いが反映されてこそ。一般の人に、
この法案にもっと関心を持ってもらいたい。
そして様々な場面で、患者の意思が尊重される工夫を、ひとつひとつ積み重ねたい。

(つじときこ 科学医療部)
引用元:http://digital.asahi.com/articles/DA3S11086585.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S110865854






七十歳安楽死法案可決」という近未来を舞台にしたSF小説があるが、
決して空想科学物語などではなく、今まさに、猛スピードで目の前を走り抜けている
現実を想定しているかのような内容だ。


人口が突出している団塊世代とその前後生まれの人々が死に絶えるまでは、
死に関するあらゆる場所の混乱や国家の社会保障の負担増や避けられない。
それなのに、解りきっていたことを、なぜに今まで放っておいたのか。
それは、歴代政府の目線が、名も無き国民などには向いていないことの
確たる証拠でもある。

思えば、団塊世代とその前後の年代とは、
なんと、時代というものに翻弄され続けてきた年代なのだろうか。
戦後において、復員兵が次々と結婚し、とてつもないベビーブームが到来した。
ポスト団塊の私でさえも、異常ともいえる人数(高校は一クラスに56人もいた)
の中に生まれ育ち、日本の高度成長に多大な貢献をしたにも関わらず、
老いを迎え、国家の役に立たなくなったら、終末期の意思を明確にしておき、
社会保障費削減のためにも、尊厳死法の助けを借りて、
お国のためにも早く死んでもらいたい・・という算段なのだろう。

しかし、私は極めて個人的な問題である「死の決定権」に関しては、
国家が介入することには違和感を覚える。
個々人の死の在り方については、個別に決めるのが本来の姿であり、
国家に介入される「尊厳死法案」は現段階では必要ではない。
その理由として、日本はまだまだ、障害者差別、高齢者差別、人種差別が堂々と
まかり通っており、すべての「命」や「人権」に関する限り、
成熟国家の域には達しておらず、むしろ後進国であり、
命の大切さについての認識は決して高くはないからである。


「生きる権利が奪われる」と反対している障害者団体の方々のお気持ちは、
「アシュリー・トリートメント事件」の概要をお読みになれば、
ある程度はお分かりになられるはずなので、
興味のある方は下記リンク先をご参照ください。


アシュリー・トリートメント


Ashley事件から生命倫理を考える



アシュリー・トリートメント事件が尊厳死法案問題と
非常に類似していると思うのは私だけだろうか。
つまりは、意思を表示できない人間は、人間の尊厳の欠片も認められず、
国家の応援による他者(家族や後見人)の判断一つで、
生かすも殺すも自由という危険性を孕んでいます。

現在問題視されている、出生前診断も、経済至上主義社会においては、
国家と社会に利益をもたらさない人間は、
生育過程における保護者の多大な心身の労苦と、
国家及び地方自治体の税による金銭的負担ばかりが多いゆえに、
生まれる前に種を断ってしまえ!という人間の身勝手さとともに、
国家による人権無視の側面も見え隠れしています。


また、私の身近な高齢者(老人)と呼ばれる層に属する人々の多くが、
老いてもなお、死は他人事であり、葬儀やお墓も含めて、
「死に関連する話なんて縁起でもない!
自分が死ぬことなんて考えたくもないわ。そのときはそのときよ。」
と言って避ける傾向にあります。
中には少数派ですが、
「常にメメント・モリを意識している。限りある生をより良くいきるために。」
という人もいます。

死をタブー視するしないも個人の自由ですが、
今は、自分の意思で自由に体を動かせる高齢者でも、
時間の経過とともに、いつなんどき死ぬか、
また運良く?延命チューブに繋がれて生きながらえることができたとしても、
個体自体は既に死の準備段階にはいっており、
臨終のときが訪れるまでは、2度と自分の意思で自由に体を動かせない
状態になることは、避けられない現実となります。


延命チューブに繋がれながら水ぶくれになったまま、
苦痛に苛まれながら死に至るか。

臨終の際には、脳内麻薬エンドルフィンの分泌により、
ほとんど苦痛は感じないという自然死状態で死に至るか?

もちろん、決めるのは個々人の生前の意思に委ねられていますが、
老いも若きも、また、性別年齢に関わらず、自然災害や事故や病気や老衰で
必ず一度は死ななければなりません。


運良く、健康体に生まれ、自然災害や事故にも遭わずに
高齢になるまで生き延びられたとしても、死は必ず訪れます。


そのとき・・皆様は下記のどちらを選択なさいますか。

「もっと、もっと、もっと、もっと、生きていたい。
 どんなに苦しくても延命をして欲しい。」

「もう辛い延命治療はして欲しくない。
 眠りに入るような穏やかな最期を迎えたい。」

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tag : 尊厳死法案 障害者団体 エンド・オブ・ライフケア 人生の最終段階 七十歳安楽死法案可決 社会保障費削減 出生前診断 脳内麻薬 エンドルフィン

生前に記しておいた終末期の事前指示書は何の役にも立たなかった・・日本のホスピス以外の多くの病院の終末期ケアはまだ哲学の域で滞っている?
今日、約半年久しぶりにプールに来たプー友(プール友人)がいる。
半年も顔を見せないと、彼の世に逝ってしまったと思われてしまうので、
「わたし、まだ元気で生きてるわよ!」と顔を見せにきたとのことだった。

彼女の話によると、脳内出血で約2年もの間、
植物状態であったご主人様を亡くされ、
その後のすべての事後処理も片付き、
やっと自分の時間が取れたと言う。

約2年前の冬、ご主人様が自宅の風呂場で倒れているのを発見後、
救急車で運ばれてからの約2年間。
彼女は雨の日も雪の日も、声も出せず、
体も自力では微動だにも動かせず、
また意思も表に現せないご主人様の元に毎日通い続けていた。
これ以上の回復が望めないのなら・・と考えて、
倒れて一年目の頃に、主治医に延命措置等を巡る
終末期ケアのことで相談を持ちかけたら、
「ご主人を即身仏にしたいのなら自宅にお連れくださって構いませんが、
当病院ではそれは出来ません。責任を取らされるのは僕らですからねぇ・・」
と一方的に拒否され、生前のご主人様の手書きに依る
リビング・ウィルも何の役にも立たなかった・・。
と嘆いていた。

更には、看取りも間に合わず、電話で呼び出されて病院に着いたときには、
医師が心臓マッサージ(胸骨圧迫)の真っ最中であり、
邪魔だからと廊下に出されたという。
彼女としては、「早く主人を楽にしてあげてください!」
と言いたかったそうだが、
医師という権限力のある人にとてもそんなことは言えなかったそうな。

死にゆく夫の手を握りながら、
倒れる前に好きだったお酒を唇に湿らせてあげたりとかの、
静かで穏やかで厳かな看取りを・・と、
事前に思い描いていた彼女には不平不満だけが残ったという。


結局は、元気なうちに自身のターミナル・ケアの意思表示を!
などと専門家と称する人たちに言われて、
事前指示書に記しておいても、ホスピスならいざ知らず、
普通の病院や、後に移った療養型病院においては何の意味も為さなかった。
日本の終末期ケアはまだまだ哲学の域そのものであると、
彼女は実感したのだという。

そして、彼女が喪主となり執り行った家族葬についても、
「お線香を上げに伺ってもいい?」
と訊ねる世間の常識なるものを重んじる善人を地で行くオバさま方には、
「家族葬というのはね。葬儀にもその後の自宅へのお悔やみ訪問も
家族以外の人には来て欲しくないという強い意思表示の見送り方なのよ。
だから、分かってね。」と我らプー友たちに念を押していた。


すでにこの国は超高齢化社会に突入している。
2025年問題も迫ってきている中、
死の自己決定権に関する論議が活発化しているようには見えない。
加えて、症状が重く手厚い看護が必要な
入院患者向けのベッド(急性期病床)について、
厚生労働省は、全体の4分の1にあたる約9万床を
2015年度末までに減らす方針を固めた。
高い報酬が払われる急性期病床が増えすぎて
医療費の膨張につながったため、抑制方針に転換するらしい。

2025年前後の多死時代に政府はどのような施策を行使するか。
本人自筆のリビング・ウィルに因る尊厳死希望を、
個々の担当ドクターの死生観に任せるタンスを貫き通すのか?
それとも、法整備に向けて何らかの考え方を示唆するのか?
難しい問題だが、世の高齢者たちには悠長に待つ時間はない。
前述の彼女のご主人様のように、また私の亡き母のように
ある日突然に、何の前兆もないままに倒れることも有り得る。

今日は元気な高齢者でも、明日には命に関わる病を発症して倒れ、
命だけは助かったとしても、重篤な後遺症で排泄は紙おむつ、
栄養は胃ろうという姿で、瞬きしかできないような姿で
延命装置に繋がれて、生きているのではなく、
無理に生かされるだけなのもしれない。
それも在宅で。

そして、多くの医師たちは、
あの川崎協同病院事件のような結果になるのを恐れ、
例え、リビング・ウィルに因る尊厳死希望でも
受け入れてはくれない医師のいる医療機関も多いらしい。

やはり前述の彼女から聞いた話で、
療養型病院内の他の病室から漏れ聴いた声の中には、
「私には自由に死ぬ権利とあってもいいと思う。」
と胃ろうや点滴を拒む人もいたという。
そして、
「もうこんな辛くて苦しい状態から解放されて楽になりたいのです!
無駄な点滴はしないでください!あなたの目的はなんですか?
お金儲けだけなのですかっ!?」
と、やっと出せるか細い声で喚いていた老女もいたという。
その老女は3日後、病院の裏口から、
○○病院と名の書かれた転院先の病院の車に担架のまま乗せられて、
走り去って行ったという。


なお、ベルギーでは2002年に成人の安楽死を認める法律が既に成立しており、
ベルギー下院は今月13日に18歳未満の子どもにも安楽死を認める法案を
86対12(棄権12)の賛成多数で可決したそうな。

もちろん、オランダやベルギーとは文化も宗教も違い、
死に対する決定権に至っては日本とは雲泥の差があることとは思う。
それに、わが国では数多の日本人の死生観からして
法で認められた安楽死というものは受け入れられないような気がする。
日本人とて死への考え方も千差万別ではあるが、
それは目前に己が死に晒されていないか、
また、迫っていないときの願望でしかなく、
そのときにならなければ、
そのときの気持ちは誰にも分からないことなのかもしれない。

それでも、老若男女に関係なく、あなたにも、私にも、
老いと死は避けては通れない道であり、
終末期ケア及び死の自己決定の行使とは、
一人称の死(死にゆく人の生前の意思)と、
二人称の死(愛する者の死を家族が受け容れられるようにするために
        医療機関側が施す適切なケア)
三人称の死(仕事として死亡診断を下す医師が終末期に関与する死)を含めて、
三者三様のそれぞれの思惑が入り乱れ、そして、二人称の死の場合は、
揺らぎに揺らぐことを想像するとなんとも悩ましい問題であることだろうか・・。
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tag : 延命措置 ターミナル・ケア 超高齢化社会 リビング・ウィル 急性期病床 尊厳死 川崎協同病院事件 安楽死

延命治療を止めて欲しいのですが・・と相談したら、「ミイラにする気ですかっ!」
約半年ほど前、知人のA子さん(70代前半)のご主人様(70代前半)が
脳内出血で倒れ、某病院に救急搬送された。

A子さんはご主人様の開頭手術後に半身マヒ等の後遺症は残っても、
なんとか命だけは助かって欲しいと願った。
願いが叶い、ご主人様は命だけは助かった。

ただ、意識不明の植物人間のような状態として・・。




そして今日、バス停で遇ったA子さんが
その後のご主人様の病態を語ってくれた。

療養型病院に移されたに後に
如何ともし難かったのが胃ろうによる栄養補給だったそうな。
なぜか、胃ろうで食物を摂ると高熱が出るらしく、
仕方なく経鼻胃管栄養法に戻したという。

ご主人様の意識が無くなって約半年。
心臓だけは規則正しく動いているものの、
自発呼吸ができないために、
フェイス・マスクによる酸素投与器も付けられている。

彼女は一日も欠かさず病院に通っているが、
意思疎通ができるわけでもなし・・
最近では、彼女にとって目の前のベッドで昏々と眠っているのは、
長年生活をともにした自分の夫ではなく、
まったく知らない人がベッドに横たわっているかのような、
なんとも奇妙な感覚に襲われることが多くなった・・。
と、心の変化をも淡々と語ってくれた。



そして、先日、意を決して、
夫の意識が戻る可能性がないのなら、
延命治療を止めて早く楽にしてあげたい・・。」
と思い、既に家庭を持っている一人息子とも相談して、
双方が納得し、主治医に「延命治療を止めて欲しいのですが・・」
と、おそるおそる相談したら、
「酸素投与と経鼻胃管栄養法延命治療ではありません!
ご主人様をミイラにする気ですか!」
と怒鳴られたそうな。

ご主人様も倒れる前は延命治療はしないで欲しいと
常々言っていたことも伝えたが、
「今の措置は延命治療ではないので
お身内の方の意見であっても止めることはできません!」と
医師は首を縦に振らず、A子さんの頭の中では延命治療
医師の頭の中では延命治療ではない治療が今も続いている。

A子さん曰く、現役医師が書いた
「延命治療を拒否し、自然死をしましょう」的な本が
たくさん目に付くが、現実の医療現場では
まだまだ受け入れられていないと思う。
それに、延命治療の線引きは病院の経営方針によって
大きく変わってくると彼女は力説していた。

人生の先輩であるA子さんの話は重かったが、
私にとって、今まさに老いは現在進行形であり、
明日は我が身かもしれない。
老いと死を見つめる上でものすごく参考になった。

バス停でのたかだか15分程の会話だったが、
この話を聞いて、他の似た事例で、両極端とも言える
医療機関の延命治療に対するスタンスの違いを思い出した。

約20年ほど前、
友人B子のご主人様(当時40代前半)が脳内出血で倒れ、
やはり意識不明の植物人間状態になり、
そのときに運ばれた東京の大学病院では、
倒れて3日後には、主治医がB子に、
「このまま延命治療を続けると経済的負担がかなりの額になります。
このまま続けますか?・・それとも止めますか?」
と訊いてきたのでB子は考えた末、「止めます」と答えたら、
すぐにフェイス・マスクによる酸素投与器
経鼻胃管栄養管を外したくれたと言っていた。
(数時間後にB子のご主人様は亡くなられた・・)



延命治療の線引きと、その在り方について、二つの事例を載せたが、
もの言えぬ患者の家族による延命治療の可否は20年前は可能で、
現在は不可?なのだろうか・・。

知人や友人の親たち(現在80代~90代)が入院する際には、
どこの病院でも必ず、延命治療の是非を訊かれると、
皆が口を揃えて言っている。

自然死で静かに夫を逝かせてあげたいと望む老妻と、
なんとか患者の命を繋ぎたいとの使命感?からか、
治療に燃える医師との心のすれ違いはどこからくるのだろう。

もしかして、A子さんのご主人様の治療方針は、
医師個人の死生観から来ているのだろうか?
それとも・・・・
130707r
病棟の七夕飾りに書いたとう早く目覚めて夢でもいいから・・
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tag : 延命治療 胃ろう 経鼻胃管栄養法 酸素投与器 療養型病院

我が生のエンディングのためのセオリー

NHKスペシャル「家で親を看取る その時あなたは」

現在、日本人の8割が病院で亡くなり、“在宅死”はわずか2割ほど。
超高齢化が進む中、国は「看取りの場所」を「病院」から「在宅」へと転換する政策を打ち出した。
2012年を「地域包括ケア元年」と位置づけ、年老いても住み慣れた地域で暮らし、
最期を迎えられるよう、在宅医療や看護、介護サービスの整備を進めている。
「治療は終わったので病院以外で療養を」と早期退院を求められる高齢者と家族。
しかし24時間対応できるヘルパーや在宅医など、在宅医療を支える社会インフラは不足し、
家族は“老い”や“死”を受け入れられず、苦悩を深めている。横浜市で診療所を開く在宅医は言う。
「これまで医療は命を延ばすためのものだった。これから必要なのは“死に寄り添う医療”だ」と。
人口に占める高齢者人口の増加率が全国一の横浜市を舞台に病院や在宅医療の現場をルポ。
「在宅の看取り」に何が必要なのかを探っていく。



最近、抗うことのできない老病死の現実に向き合っているせいか、
この手の番組を録画して観る機会が増えた。

我が家の場合、夫婦ともに既に親はこの世にはいないので
「家で親を看取る その時あなたは」には該当しないが、
「家で夫を看取る その時あなたは」
「家で看取ってもらうとは そのとき私は」
の参考にしようと思った。


病院というサービス業においては、長期の入院患者では
徐々に点数が減って儲からない仕組みになっている。

そこで国は、病院を儲けさせるために、
これ以上の回復の見込みがないと思しき末期高齢者の患者には
「治療は終わりました。国の方針なので退院を!」と迫り、
今後は在宅で介護せよ!と言う。

介護する意思があり、尚且つ、介護者として体力のある家族がいて、
懸命に介護をしてもらって、そして、看取ってもらえるのであれば、
それは、世間的には天寿を全うした。ということで、
ある意味ハッピーエンドな最期と言えるかもしれない。

だが、終末期を介護してくれて、そして看取ってくれる人間がいない場合、
「家には誰もいない・・その時あなたはどうするのか?」
のほうが重要な問題提起のような気がした....。

前にも書いたが、死生観の違い?だろうか。
欧米諸国では嚥下力が落ちて、口から食べられなくなったら、
日本のように苦痛を長引かせるだけの延命治療はほとんどの場合はしない。

私の母の場合などは、嚥下力のなくなった母に対して、
近くに住み、尚且つ緊急連絡先になっている妹が、
医師からの胃ろうの是非について、
母の意思を確認せずに何の疑問も抱かずに胃ろうを承諾した。
胃ろうを付けてまで生かされる母の苦痛などは眼中になかったかのように・・・。

そして、母が胃ろうを付けて数年後・・・
何度も胃ろう設置後の逆流による誤嚥性肺炎に罹り、
ある日、その誤嚥性肺炎で呼吸が止まり、心停止してもなお、
妹の希望で蘇生措置として電気ショックによる心肺蘇生措置を施したが、
医師の努力も虚しく、あっけなく還らぬ人になった。
妹は、母に胃ろうを付けたことで数年間長く
母を生きながらえさせたことを誇らしく思っている。
最後の最後まで私が母を生かしてあげたのだと・・。


結局母は、「死はタブーである」と考えている、
世間の一般的常識というものを重んじる前向き指向の妹に
苦痛を強いられ、ただただベッドから天井を見上げるだけの
「自らの意思で生きている」とは言えないような、
「他者により生かされている」だけの状態で
無理矢理に肉体だけを生き長らえさせられた?
のかもしれない。



団塊世代の人々の多死時代を迎えつつある今、
病院では看取って貰えず、特養などの年金収入だけでも
なんとか入所できる介護施設も満員で入れない。

もし、私が運よく生きていればと仮定しての話だが、
2030年頃には私は死に場所のない後期高齢者になっている。
ゆえに戻れるところは朽ちかけたこの家しかない。
だがそこには家族はいない・・。
では、誰に看取ってもらえばいいのか?

介護保険での生活援助ヘルパーに来てもらっても、
生活援助の現行の45分では短すぎるし医療行為もしてもらえない。
また、30分延長すれば、その分は全額自己負担しなくてはならないし、
経済的負担ものしかかって来る。
訪問看護師も来てはくれるが、介護保険の支給限度額内で収めようとすると、
週に1~2回程度しか来てもらえないのが実情だ。

なので、24時間介護してくれる家族=看取ってくれる家族がいないときには、
45分間だけ滞在するヘルパーが看取りの綱だが
ヘルパーがいないときに突然容態が急変したら、
自力では電話も出来ない状態なのだから選択の余地はなく、
いわゆる孤独死をするしかない。


私自身は孤独死をそんなに恐れてはいない。
病院で苦痛極まりない延命治療をされながら死んでゆくよりも、
自宅で苦しまずに逝けるのならばそれでも良いと思っている。

遺体はいずれは発見され、孤独死として処理されて行政解剖されるかもしれないが、
そのような死に方も、国民の大多数が社会保障費がますます削られるのを承知で
低福祉社会を推進する政権を選択したこの国では人生のエピローグの迎え方として
孤独死を否応なく受け容れざるを得ないのかもしれない。

死に方のセオリーさえも拒否されし連続体としての生をもまた 
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tag : 終末期 団塊世代 多死時代 特養 介護施設 訪問看護師 孤独死 行政解剖 低福祉社会

それでも“延命”を ~揺れる人生最期の決断~
一昨日、NHK 特報首都圏 『それでも“延命”を ~揺れる 人生最期の決断~』を観た。


内容

介護とは異なり、人工呼吸器や詰まった痰(たん)の吸引など24時間付きっきりで、
家族からは「夜眠ることができない」「自分が病院にも行けない」といった悲痛な叫びが。
患者と家族をどう守るか。本人に意識がある…


病気でも、住み慣れた自宅で暮らしたい”。
人工呼吸器や胃ろうなどの「医療依存度の高い患者」でも在宅医療が可能になった。
家族は、どうするのか。
医療の大きな流れは病院から在宅へ向かい、
今後、どの家庭も直面する課題だ。
介護とは異なり、人工呼吸器や詰まった痰(たん)の吸引など24時間付きっきりで、
家族からは「夜眠ることができない」「自分が病院にも行けない」といった悲痛な叫びが。
患者と家族をどう守るか。





番組に取材協力をしていた患者と家族を
この国のお粗末な福祉制度では安心させることも守ることもできない。
厚労省は、高齢者医療も介護も病院から在宅へ!を推し進めているので、
介護者が「夜眠ることができない」「自分が病院にも行けない」ことなどは
重々承知の上なのだから・・。

患者が亡くなるか、もしくは介護者が倒れるかでもしない限り、
いつ終わるともしれない悲痛な叫びのみが聴こえて来るだけだろう。

更には番組を見ていて思ったことは、介護者全員が患者に対して
「延命しない」という選択肢は毛頭なく、
迷いもなく「100%延命をして欲しい」「後悔はしていない」
と答えていたことだ。
私が介護者の立場になったら到底無理だとは思うが、
患者本人と介護者の双方が「延命」を選択して、
24時間付きっきりの介護を覚悟の上で、
また患者が苦痛に耐える覚悟があるのなら、
死に対する考え方も人それぞれなので
否定するつもりは、これっぽっちもないけれど、
時が経つにつれて、あまりの負担の大きさに
1秒たりとも耐えられなくなる時が来るのではないだろうか。

そして、時が満ちてそのときが来たときには、
心の中では「私は最期まで介護したのだ!」という充足感とともに
親しい婆さん友達たちからよく聞く話として、
「やっと死んでくれてホッとした・・」とも思うのだろうか。


大多数の人は、それなりに元気なときには、
口先だけでは家族には迷惑をかけたくないので、
延命はしないで欲しい。などと口を揃えて言う。
本当にそう思うのならば、家族の意向はどうあれ、
固い決意で延命措置は拒否すべきであると思うが、
意識は鮮明で、身体的に延命措置をしなくては
生を維持できないと知ったときには死の恐怖には抗うことができずに、
延命措置を懇願する人も多いらしい。

事故や自然災害による不慮の死以外では、
人は迫りくる死の恐怖に打ち勝つことはできないのだろう・・。


交通事故で頭部に外傷を負って脳内出血を起こし、
医師にも家族にも、もうこのまま死ぬか植物人間状態にしかならない。
と思われながらも、鼻腔栄養補給をしながらの4ヶ月間の意識不明状態の後に
無事にこの世に生還した知人(50代後半男性)がいる。

その間、本人は体をピクリとも動かせず、声も出せなかったが、
微かな意識はあったという。
彼は家族の要望による延命措置の中で、最も苦痛だったのは
咽喉に詰まった痰の吸引だったと言っていた。
あのときだけは、「早く死なせてくれ!お願いだからもう楽にしてくれ!」
と何度も神に祈ったという。


明日は我が身でもあるが、何が何でも死に至る前の心身の苦痛だけは避けたい。
家族愛という分厚い衣で装飾された家族のエゴ(家族の要望による延命措置の選択)
で耐えがたい心身の苦痛(自身の体の痛みと家族に迷惑をかけているという精神的苦痛)
を強いられながら、無理矢理に生かされることに私は耐えられそうもないので、
人工呼吸器や胃ろうなどの延命措置はごめん蒙りたい。

と、今は思っているけれど、
そのときになったら私も心変わりするのだろうか・・・。



愛というオブラート紙に包まれた家族のエゴで繋がれし生よ
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テーマ : 「生きている」ということ ジャンル : 心と身体

tag : 延命措置

“凜とした生の日々”から“凜とした最期”を迎えるためには・・
録画しておいた、2013年4月3日(水)放送のNHK「クローズアップ現代」
「“凜(りん)とした最期”を迎えたい ~本人の希望をかなえる医療とは~」を観た。

医療によりただ命を長らえるのでなく、
自分らしい生き方を守りながら最期を迎えたい。
いわゆる「平穏死」や「自然死」を扱った本が
ベストセラーとなるなど大きな関心を集める中、
高齢者たち自身が自分の死に方・医療のあり方についての意志を表し、
行動を起し始めている。
多死社会の到来が目前に迫り、
医療費削減への国民的議論も高まる中で、
高齢者の意志をどう実現するかが、今大きな課題だ。
しかし、終末期医療の現場では、
高齢者本人が書面で意志を残していたとしても、
延命措置の是非を巡って親族間で意見が対立したり、
医師の側にも裁判で訴えられることへの懸念も強く、
延命措置を拒否するのは難しいのが現状だ。
高齢者の「最後の希望」をどうかなえるのか、
最先端の事例を交えながら考える。




超高齢化社会に老後を迎え、超高齢化社会の中で
生のエンディングを迎えなければならない我が夫婦。
近い将来(明日かもしれないけど)の
私または夫の死という出来事に、
自分の意思で体が自由に動かせるうちに、
また、認知症になる前に凜とした最期を迎えるための
終末期医療の意思表示を書面に残す大切さを痛感した。


だが、私の意に反して、我が夫は相も変わらず「死はタブー」であり、
終末期医療のことも、死んでからのことも
「そういうことを考えるのはネクロフィリア的で僕は好まない。
僕はバイオフィリア的な生き方を信条としているので、
終末期と死後のことの一切合切はあなたと子どもにお任せします。」
的な態度を貫いている。

そりゃあ、誰でも自分と家族の死などは考えたくもない。
だが、私が死以上に恐れることは死に至る前の苦痛である。
近い将来に確実に訪れる死に向かって生きている身としては、
嫌でも終末期医療を考えないわけにはいかない。



昨年、今の医学では助かる見込みは99%ない!と断言されながらも、
延命用のチューブに繋がれた死に至る約一週間前の弟の姿を見たとき、
こんな生かされ方は嫌だな・・と本気で思ったものだった。

弟の妻は、「今まさに死にゆく夫も苦しいでしょうが、私も苦しいのです。
夫は一年365日、生のエネルギーに満ち溢れていた人で、
自分が死ぬ。などということは、一度も考えたことの無い人でした。
入院してからも、退院後の楽しい話ばかりしていました。
なので、終末期医療についても一度も話したことがありませんでした。
このような延命治療を夫が望んでいたのか、望んでいなかったのかは、
今となっては、私にはわかりません。
でも、もしかして奇跡が起きるかもしれません。
たった1%でもいいのです。その微かな奇跡を信じて、
また悔いを残さないために、
私は夫の延命措置を受け容れました。
と言っていた。
しかし、その口調からは、私たち血縁者である者たちに対しての
「妻として、私は出来る限りのことをしたのです。」のごとき、
或る意味、弟の死への責任回避のための罪のない意図も感じられた。

当たり前だが、私も親族も誰も弟の妻を責めてはいないし、
責める気など毛頭なかった。
59歳が弟の寿命だったのだろうから。

そして今、そのときのことを振り返ると、子どもも無く、
たった独りで残された弟の妻は心身ともに辛かっただろうな・・。
ただただ、「59年の生涯を自分の意思で自由奔放に楽しく、
また豪快に生きた弟に寄り添い、最期を看取ってくれてありがとう。」
の思いしかない。

そのような経験の許に、或る程度の年齢になったら、
死にゆくときの自分の苦痛回避のためと、
残してゆく遺族の自責の念の回避。
そして、延命措置について遺族間で意見が対立しないためにも、
元気なときに終末期医療の要望書として、
書面に記しておくことは必要だと強く思った。


それでも、事前に本人が書き置いた終末期医療の要望書が
確実に実行されるとは限らない。

ある家族は本人の自筆による終末期医療の要望書があろうとも、
どんな状態でも生きていて欲しいと延命措置を懇願するかもしれない。
また、ある家族は本人の自筆による終末期医療の要望書がなくても、
早く死に至る苦痛から解放してあげたいと思うかもしれない。
そこには誰しもに共通した正解などはないが、
私は本人の生前の意思が優先されるべきだと思う。

結局は、「凜とした最期」を迎えるには、
今まさに死にゆく人間の気持ちを忖度することはできないが、
老若男女に関わらず、生と死は常に隣り合わせに存在している。
ということをときどきは自覚しつつ、
高齢者においては、死は隣り合わせどころか、死は目の前にある。
という事実から目を背けずに常に死を覚悟をしておくことが
最善の策なのかもしれない。
残り少なくなった「凜とした生の日々」を送るためにも・・・。

人生は楽しまなくちゃね♪だからこそ死を見つめるのと微笑む老女
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tag : 終末期医療 ネクロフィリア バイオフィリア 延命措置 自責の念

欧米にはなぜ、寝たきり老人と寝かせきり老人がいないのか?
ヨーロッパの福祉大国であるデンマークやスウェーデンには、
いわゆる寝たきり老人はいないと、
どの福祉関係の本にも書かれています。他の国ではどうなのかと思い、
学会の招請講演で来日したイギリス、アメリカ、オーストラリアの医師をつかまえて聞くと、
「自分の国でも寝たきり老人はほとんどいない」とのことでした。
一方、我が国のいわゆる老人病院には、一言も話せない、
胃ろう(口を介さず、胃に栄養剤を直接入れるため、
腹部に空けた穴)が作られた寝たきりの老人がたくさんいます。

 不思議でした。日本の医療水準は決して低くありません。
むしろ優れているといっても良いくらいです。

「なぜ、外国には寝たきり老人はいないのか?」
 答えはスウェーデンで見つかりました。
今から5年前になりますが、認知症を専門にしている家内に引き連れられて、
認知症専門医のアニカ・タクマン先生に
ストックホルム近郊の病院や老人介護施設を見学させていただきました。
予想通り、寝たきり老人は1人もいませんでした。胃ろうの患者もいませんでした。

 その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、
口から食べられなくなるのは当たり前で、
胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、
国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは
老人虐待という考え方さえあるそうです。

 ですから日本のように、
高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、
点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。
したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、
寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。

欧米が良いのか、日本か

 さて、欧米が良いのか、日本が良いのかは、わかりません。
しかし、全くものも言えず、関節も固まって寝返りすら打てない、
そして、胃ろうを外さないように両手を拘束されている高齢の認知症患者を目の前にすると、
人間の尊厳について考えざるを得ません。

 家内と私は「将来、原因がなんであれ、終末期になり、
口から食べられなくなったとき、胃ろうを含む人工栄養などの延命処置は一切希望しない」
を書面にして、かつ、子供達にも、その旨しっかり伝えています。(宮本顕二)

引用元:読売新聞の医療サイト「yomi Dr. 」




長年、日本女性は世界一の長寿を誇ってきた。
(東日本大震災で死亡者が多かったために現在は香港に次いで世界第2位)
ゆえに、日本女性の誰もが私も長生きできる・・と思っているかもしれない。

確かに長生きは出来るが、残念なことに元気で長生きではない。
毎日元気で巣鴨地蔵尊に通って、赤い下着を買って、
残生を謳歌しているのは極一部の高齢女性たちであり、
日本女性を世界有数の長寿にしているのは、
「寝たきり」及び「寝かせきり」の数多の高齢者女性たちであり、
巣鴨地蔵尊に行けるほど元気で、
自力で動けるような高齢女性たちでは決してない。

今の医学、科学では、どんなにアンチエイジングに励んでも、
一過性であり、老化そのものを避けることは100%できない。
加齢に因る病気になって、大学病院で高度な医療措置を受けても、
ほとんどの人は最期の日まで元気で長生きは出来ない。
健康寿命が終わったら、病苦に喘ぎながら、
また苦痛に苛まれながら、やがては寝たきり及び寝かせきりの状態になり、
一日中天井を見上げながら、平均寿命まで生かされるしかない。

「欧米が良いのか、日本か」についても、
自分の生の終焉を選ぶのは自身であり、終末期医療の要望書に添って、
胃ろう等で寝たきり、寝かせきりの状態でも生きてたいと
事前に意思表示をしていた人はそのまま生きていていただけばいい。

また、あんな状態で生きてなどいたくないと
終末期医療の要望書で意思表示をしていた人には、
胃ろうは付けないで尊厳ある自然死をしていただけばいい。
但し、その場合は最大限の苦痛は取り去ることを条件とし、
施設入居時、または病院入院時に家族の意思ではなく、
終末期医療の要望書で本人の意思の確認を必須条件とする。

それから、終末期医療の要望書には「無理な延命はしないでください」と
書いただけでは医療者側には通じないので、
延命措置と思われる、ひとつひとつのと医療行為の項目を書き連ね、
これはOK!これはNO!と詳細に記述しなくてはいけないらしい。



また、意思表示もできず、終末期医療の要望書も書くこともできないほどの
認知症になってしまった場合は、自分自身の人生最大のイベントである、
死及び終末期を見ない振りをして、認知症になる前に考えておかなかったのが悪いので、
家族や近親者の思惑に従い、高齢者ビジネス産業に貢献していただくしかない。(^_^.)

そうすれば、胃ろうと寝かせきりで長生きできて、
家族は「家(うち)のおばあちゃんは天寿を全うしましたのよ。」(*^_^*)
と、対社会向きは体面を保つことができ、
心の奥底ではやれやれやっと死んでくれた・・・(ーー )
とホッとすることだろう。



私の友人や知り合いには50代から70代が多い。
その中の半数は配偶者及び親の介護中、または介護経験者でもある。
彼女たちは自分がもっと老いて体の自由が利かなくなったときには、
「子どもの世話になる気はさらさらない。
でも、自由に体が動かせなくなったり、認知症になったりしたら、
特養や老健や療養型病院に入るしかない。
だが、ここは一応都市部。市会議員とのコネもないので、
希望すればすぐに入れるとは思っていない。
それに蓄えもないので、逆立ちしても有料老人ホームになんて入れっこない。
結局は在宅での孤立死しか道はないのよねぇ・・」
と口を揃えて言う。
長年月、税金を真面目に納め、家族を支え
人生の秋を迎えたシニアorシルバー女性たちに
「孤立死しか道はない....」
なんて本気で言わせるこの国の福祉の在り方って・・・???

実体の見えない希望と絶望に終止符を打つ雨音がして秋 
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tag : 寝かせきり 巣鴨地蔵尊 健康寿命 自然死 終末期医療の要望書 高齢者ビジネス産業

尊厳死は是か非か
腰痛が一向に良くならない。
少しでも痛みが取れたら・・と思い真面目に治療(投薬、注射、牽引)を受けているが、
初診のときと同じ状態が続いている。

これも複数ある持病の一つとして受け容れ、
このまま最期の日まで歳を重ねて行くしかないのだろう。

こうやって、少しづつ健康寿命では生きられなくなり、他者の手を煩わせながら、
少しづつ、すこしづつ、死に近づいて行くのよね・・

いずれ、私を迎えに来る死神ってどんな顔をしているのかしら?(?_?)
などと、想像しつつ、明日回収される新聞を束ねていたら、
先月末に掲載された、「尊厳死 揺れる思い」の記事が目に入った。
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IMG10
IMG20


どのような身体状態であれ、生を貫こうとする人がいると思えば、
老々介護の場合等は、被介護者の行く末を考え、
揺れる思いの中で尊厳死を考える人がいる。


もし、尊厳死法案が可決したとしても、
自身の生をと死を決定できるのは本人だけであり、
家族で在れども他者の死には介在できない。

健常者の側から見て、この人はスパゲティのごときに
何本もの延命チューブに繋がれて、無理矢理に残酷な生を生かされている。
と感じても、本人にとっては、そのような状態でも、
もっともっと生きたいのかもしれない。

私が考えるに、ドナーカードのように、リビングウィルカードを配布し、
事前指示書をしたためておけば、交通事故でも、重篤な病気でも、
家族が悩みに悩むことは少なく、死亡後は後々までもグリーフ・ケアを必要とせず、
本人の死に対する意思として、尊厳死を尊重できるのではないかと思う。

でも、20代、30代の人に自分の死を意識せよ・・は無理よねぇ。(^_^;)
私も20代~40代までは、自分の死なんて全然意識してなくて、
50代で全身麻酔での手術の直前に初めて自分の死を意識したんだから・・。

このまま目が覚めなかったら、私は死ぬのよね・・。なんて考えながら
手術台に横たわり、口と鼻に吸入麻酔器を当てられ、
「声を出して数を数えてください。」と言われて、
数を1.2.3.........
まで数え始めたことを今でも鮮明に覚えている。

数時間後、看護師にほっぺを叩かれ、無理矢理目覚めさせられる前までは、
意識のない何も無い世界に行っちゃってたわよ。
死後の世界って、あんな感じ。つまり、無の世界なんだと思ったものよ。


生物が死ぬのは自然の理であり、ヒトの死は仕方の無いこととしても、
私が死に至るまでの耐えがたい心身の苦痛の期間は
出来る限り短期間であって欲しい。


尊厳死法案が可決されたら、膨大な額の医療費の削減にもなるし
介護費用で家族の生活を圧迫することもなくなる。

死の前の心身の苦痛から早く解放されたい人には、
セデーション措置で楽にしてあげ、苦痛を抱えながらでも生き抜きたい人は
そのまま生きていてもらえばいい。
それには、本人が自己の意思を表現できなくなる前に書き置く
事前指示書」が必要不可欠になる。

家族に迷惑をかけたくないとか、また重荷になることを考慮して、
延命を拒否する人に「命の大切さ」だとかのきれいごとを振りかざして、
尊厳死そのものに危惧感を覚える人もいるだろうが、
老若男女を問わず、人間に明日という日が訪れるとは限らない。
交通事故等や自殺に失敗し、その後遺症で生涯寝たきりになる人もいる。

それに、身近な家族に亡くなった人がいたとしても、本人でない限りは、
死に至る前の心身の苦痛などは判りっこないものよ。

この世に生まれ落されることは選べないが、
せめて、自身の死ぐらいは、選択が可能であるのならば、思うようにしたい。
だって、死期が迫っているのに、無駄な点滴を続けられるのって、
ものすごい苦痛らしいじゃない・・。

団塊世代による多死時代が訪れつつある今、
もう余命いくばくも無い状態の人や、もう治る見込みは無く、
死に至る前の心身の苦痛に苛まれているときなどには、
本人が望んでいたのであれば、医療機関が罰せられることなく、
国が尊厳ある死に方を承認してくれてもいいのではないだろうか。

もし、私が上記の記事画像の69歳の奥様の立場であったなら、
多分、「この病態が死ぬまで続くのなら早く楽にして・・」と懇願するだろう。


再度言うけれど、尊厳死は本人が書き置いた事前指示書があれば、の話であり、

1 死期が切迫していること
2 耐え難い肉体的苦痛が存在すること
3 苦痛の除去・緩和が目的であること
4 患者が意思表示していること
5 医師が行うこと
6 倫理的妥当な方法で行われること

等の条件の許でだったら、
私は治療不可能で心身に苦痛を伴う生の最終段階での尊厳死は是と考えている。

ただ、「弱者を簡単に見捨てる社会は、存在価値がない」という
上記画像の下段の40歳の方の言葉は、私と彼とは親子ほどの年齢差があるが、
ものすごく重く受け止めている。
120909r
火花見る児らと落つる火を見る吾と夏の終わりの線香花火
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tag : 尊厳死法案 介護費用 事前指示書 団塊世代 多死時代 ドナーカード リビングウィルカード

たとえばガン等で死に至る患者になったら身につけておくべき作法
私は50代のときに三回の長期入院と手術を経験した。
一回目は急を要する病気で緊急入院を余儀なくされ、後の2回は入院と手術日は自分で決めたが、
あのとき決断をしなかったら、今ごろは寝たきりになっていたかもしれない・・。

60代になった今現在の体調不良部位はといえば、不定愁訴と40肩と腰痛程度で済んでいるが、
どんなに健康に気を付けていても、老いと死は避けられない。
今度は別な病気や怪我でいつ何時、再び入院と手術が必要になるか判らない年齢になってしまった。
急病での即入院の経験から、いつでもすぐ入院できるように、スーツケースに入院グッズを入れているが、
しばらくは役立たないことを願うのみである。

そんなとき、新聞((3月3日)の読者投稿欄に現役医師の「患者が身につけるべき作法」が載っていた。
60歳の開業医でいらっしゃるそのお方は、二年前に死に至ることもある大病を経験されているらしい。
読んでみて、「なるほど!」と思ったので備忘録としてここに転記しておこうと思う。

作法1  死にゆく状態でも、自分を甘やかしてはならない。 人間として果たすべき責任と義務がある。

作法2  医師の説明を理解し、事前に家族に意志を伝えておこう。 家族に治療法の選択を丸投げしない。

作法3  激痛の時こそ、つらさは我慢して家族を思いやろう。

作法4  病院に居心地の良さを求めてはならない。 心地良すぎると退院が嫌になる。

作法5 病院の運営などに異議があれば、クレームではなく依頼の形にしよう。

作法6  延命処置を拒否するリビングウイル (事前指示書) は自分で作成する。

作法7  医師に求めるのは適切な診断と治療だけ。 わが国では診療報酬が低い為、 医師は多忙だ。

作法8  医療従事者に期待するのは医療に限定する。 人生を問いかけたくなるが、彼らは若すぎる。

作法9  体が病み、心までなえてきたとき、生き方が問われていると自覚しよう。


今現在の医療施設は患者がどんな状態であれ、
生かすことのみを優先し、
この患者はもう助からないと診断しても最後の最後まで治療をしたがる。
医療者側は最大限のベストを尽くしたという余韻に浸りたいのかもしれないが、
患者にとっては苦痛そのものでしかないかもしれない。
死ぬ権利、無駄な延命治療拒否の権利等を
口頭で伝えられない状態になったときのことを考えたら、
やはり、リビングウイル (事前指示書)は不可欠だわね・・。
上記の「患者が身につけるべき作法」9箇条を参考にしつつ、
嫌でも必ず訪れるその日まで・・
今のところはジタバタ、アタフタしながらも、
残り時間を悔いなく楽しく生きていこう。

やがて来る死は解放か死に至る病は絶望とキェルケゴールは 
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tag : 死ぬ権利 延命治療拒否 リビングウイル 事前指示書

死に支度は元気なときに
すごい雪が降った。
すごいと言っても積雪量はたかだか5センチ程度だが、
それでもこの辺では大雪である。
滑って転んで骨折は嫌なので外出予定を延期して、
年に一度のエンディング・ノートの見直しをした。
少しだけ変更して、そのまま引き出しにしまったが、
我が終末期の要望書を読み返していて、
ふと、プール友達のA子のことを思い出した。

「明日のことはなるようにしかならないものよ。
だから何も考えないことにしてるの。
今までも、これからも、人生はケセラセラで生きることにしているの。」
が口癖のA子(60代)。

そのA子のご主人様(70代)は昨年の暮れに脳血管の病気で倒れ、
延命用チューブに繋がれて延命措置を施されていたが、
一ヶ月ほどを経て、医師に「もう主人様の意識が戻ることはないでしょう。
延命用の医療器具を外しますか?どうしますか?」と訊かれ、
子どもたちと相談の上、外すことを了解した。
そのときにA子は数日中に夫を看取るのだと、
一世一代の覚悟を決めたらしい。

だが意に反して、御主人様はその後自力呼吸を始め、
今現在も意識不明まま病院にいる。
そして、A子は言う。
「息だけはしてるけど、生ける屍のような主人は私の中ではもう死んでるのよね。
主人はいったいどういうに生の終焉を迎えたかったのかしら?
死ぬ話なんかは縁起が悪いからって、
お互いにそういう話は避け続けてきたけど、
こうして目の前に夫の死に至る現実を突き付けられると、
お互いに元気なときに、終末期医療のことや葬儀の規模とかお墓とかの話を
『こうして欲しい』と話合っておくべきだったわ。
それに、預金のほとんどが主人名義の定期預金だから、
あの状態では委任状も書いて貰えないし、
普通預金のキャッシュカードの暗証番号も知らないし、
子どもには頼れないしで、今は入院費の心配で頭が痛いわぁ・・・。(ーー゛)」
だそうである。


我が家では50歳を境に、お互いに何があっても良いように、
夫の提案で預金額(微々たる額よ(^_^;))は半々にしておいたが、
問題は我が夫の終末期である。
御多分に漏れず、我が夫も自分の死に付いては話を避けるので、
面と向かって訊くのも憚られる。
数年前に夫に終末期の要望等を書いて欲しくて、
エンディング・ノート渡したことがあるが、
返答は「お前の好きなように書いておいてくれ・・」(^_^;)
と言われたが私はまだ書き上げていない。
夫の終末期と死後のことを私の好きなようにしても良いのなら、
それなら私が勝手に書いて差し上げましょうぞ。( 一一)
とは思いつつも、できれば本人の希望に添いたい。
終末期はどうしてほしい?
葬儀の規模は?
無宗教式?それとも宗教式?
死亡を知らせてほしい人は?
臓器提供の意思は?
を知りたいので、事件、事故、有名人の訃報等のニュースを見ての夫の感想の言葉の端々から、
少しづつ拾ってはいるが、いくら私が勝手に決めていいとは言え、
いったいどういう生の終焉を迎えさせたらいいのかをまだ判断しかねている。
お墓に付いては「海への散骨」で意見が一致しているが、
死は不意に訪れるものでもある。
そうね・・・
使えそうな臓器は全部提供し、
夫名義の預金は欲と道連れの私が全額相続するとして、
葬儀は私と子どもたちと孫のみで直葬をし、
後日、お別れパーティ形式で送るとしたいのであります。(^_-)-☆


確かに・・・
「明日のことはなるようにしかならない。」かもしれない。
だが、老いを自覚したら、なおのこと死に支度は早めにしておいたほうが、
安心して余生を満喫できるような気がしてならない。
たとえ明日、首都圏直下型大地震で死のうとも・・。

しんしんとただしんしんと降りしきる雪にまどろむ無機物となりて 
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tag : エンディング・ノート 延命措置 首都圏直下型大地震

「命のともしび」・・苦しむ姿に消えぬ迷い
「妻がどう考えているのか、いまの気持ちを知る手段はない。
それに、苦しさだけでも取り除けるかもしれない」。
断った数日後、邦浩さんは胃ろうにすることに同意した。


             ---------中略---------


妻に限れば、胃ろうはすべきでなかったかもしれない。
苦しそうな姿を見ると、邦浩さんは考える。
「妻は、私のわがままで生かされているのかもしれない」。
でも、もう一度同じ選択を迫られても「迷う」と話す。



詳細は朝日新聞の「患者を生きる」2011年2月24日↓をお読みください。

命のともしび 食べること:3 苦しむ姿に消えぬ迷い



やがて訪れる死に至る病から目を背け、老いからも目をそらして、
日々、愉しいことだけを考え、
享楽的(ショッピング、グルメ、旅行等々)なことに身を委ねて、
束の間の幸せを感じる日々のなんと心地良いことだろうか・・。




だが、それも今の内・・・
上記の記事の方は若くして認知症になられた人だが、
老いれば嫌でも自分で自分のことさえできなくなり、
食事も排泄も人様の手を借りなければならなくなる。

今は病気や死は他人事ではあっても、
地震や事故で明日はわが身に降りかかる出来事かもしれない。


だが、この歳までなんとか生き延びてきた。
やっぱり・・病気で死ぬことを想定したい・・・・。


例えば、テレビドラマで見るような死に際だが、
ガン死に限らず、息も絶え絶えながら、
「あなた、今までありがとう。幸せだったわ・・」のごとき言葉を発しながら、
ガクッと首を垂れる臨終場面は真っ赤なウソで、余命が時間単位になれば、
完全に意識混濁状態になり、
家族が理解できるような鮮明な言葉を発することは皆無らしい。

そんな時に「気管切開をして延命をしてくれ」だの、「もう楽にしてくれ」だの、
の要望は自分の口から発することはできない。
では、どうするか?
やはり、本人が生前に書き置く終末期医療要望書に因る意思表示が重要且つ必要となる。

自身の「終末期医療の要望書」を持参せず、もしくは家族に託さずに入院し、
意志表示ができなくなったとき、
延命するか?しないか?の意思決定は家族(居れば)に託される。
本人の意思表示が無い(できない)わけだから、家族も迷いつつも、
患者自身が絶対に嫌だと思っていたチューブに繋ぐ延命を願い出るかもしれない。
受けたくもない辛く苦痛に苛まれる無意味な治療を死ぬまで継続させられるかもしれない。

私は意思表示もできないままでスパゲティ状態で延命されるのはごめん蒙りたい。
むしろ、 意識レベルを下げ、苦痛を感じないようにしてもらって、
穏やかな顔でさっさとこの世からおさらばしたい。

家族には、
「故人は生前にこういうものを書いていました。
ですから、迷いも悔いもありません。」
と言わせたいし、
そのほうが家族を後々まで、罪の意識に苛ませることも、
惑わせることもなく、死にゆく本人も楽なはずだと思う。

今現在の私の「終末期医療の要望書」は延命はしないでください・・
程度の漠然とした意思表示でしかない。
この際、「胃ろう」も「気管切開」も、etc...
も拒否する旨を事細かに書き加えなければ!と思っている。

明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。 
                    by マハトマ・ガンジー
110225r
大勢の人をおくりて今があるやがては我もおくられびとに
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tag : 終末期医療 延命 余命 胃ろう 気管切開

尊厳死宣言書
livingwill
誰も皆、自分が死ぬことなどは考えたくはない。
昔から死は忌み嫌われるものであり、死の話題には顔を背け、
今でも現実の死は社会からは覆い隠されている。
しかし、死と生は表裏一体。
「生を追及すれば死に至り、死を追及すれば生に至る」
ものなのである。

死の概念に対する男女差もある。
個人差もあるだろうが、
一般的に男性は死を直視し過ぎの傾向が強いのだろうか?
なるべくなら目を背けようとする気持が大きいように思う。

我が夫も、「自分が死ぬときのことなんか考えたくもない・・
死んだ後のことは君が好きなように勝手にやってくれ。」と言う。
だが、私が先に死ぬ場合、夫に好き勝手にはして欲しくない。
特にターミナルケアに於いては・・・。



女性は平気で自分の死に対する思いも、
パートナーの死の瞬間の様子も他人様の死も平気で話をする傾向にあるように思える。

若くしてご主人様(当時40代)を亡くされた友人がいる。
ご主人様の突然の発症(脳血管の病気)から死に至るまでの3日間、
彼女には成す術もなく、ただ右往左往するのみだったと言う。

救急車で病院に運ばれて3日目、延命用のチューブに繋がれ、
なんとか心臓は動いてはいたが、回復の見込みは皆無であり、
「ご主人様は既に脳死状態です。このまま延命を続けますか?費用もかかりますが・・?」
と担当医に訊ねられたそうである。

まだ手のかかる子供が3人もいる。
脳死状態の夫にかかりきりになるわけにもいかない・・。
迷いに迷った末に彼女はチューブを外すことに同意したそうである。

その時の決断が正しかったのか?間違っていたのか?と、
葬儀の後に悩んだ時期もあったが、
夢枕にご主人様が立ち、
「強く生きよ!子供を頼む!」と言われたと言う。
「突然の主人の死でパニックになっていて幻覚を見たのかもしれないわね・・。」
と苦笑していたが、今はあの決断で良かったのだと確信していると言う。


私は4日前に終末期医療の宣言書をここに載せた。
私自身は既に死亡適齢期に入っているばーさんであるが、
誰もいない場所でポックリ死でもしない限りは、病院で最期の日を迎えることになる。
もし、そこで脳死状態になったときに、延命措置のことで迷う家族も出てくるかもしれない。

早く楽にしてあげたい・・と思う家族や、
脳死状態でも良いから、
自ら息絶えるまでそこに存在していて欲しいと思う家族が出てくるかもしれない。
(いるかな?そんな家族・・
それでも、
そこで家族が悩まなくても済むように、
「本人が強く望んでいたことなのだから、同意しよう!」
と、決断の助けになるように、
終末期医療の宣言書と内容が似通ってはいるが、
更にリビング・ウィル(尊厳死宣言書)で念押しをして置こうと思う。

今というこのありふれたかけがえのない日々をより楽しく生きるために・・

101125r
あまた在る罪の懺悔をせぬままに罪人(つみびと)として生まれ変わらむ  
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終末期医療の要望書
20年ほど前、健在だった姑が私に訊いてきたことがある。

「ナス代しゃん。あん世っちゆう世界はほんなごとあっけん? 
あっけんってしたらどこにあると?」

突然の質問に戸惑いながらも、
「そうですね・・在ると思えば在るし、無いと思えば無いんじゃないでしょうか?
信じる者は救われる。と言いますから、
在ると思っていれば間違いなく、極楽浄土に行けると思いますよ。
お義母さん。そんなことを考えるより、今を楽しく生きられたらいかがですか?」
などと、ありふれた語彙を並べ立て適当に答えていた。

その頃の私は死や彼の世の存在などというものは、
遠い遠い遥かな未来に考える出来事であり、
死は見知らぬ他者の身の上起こる不幸な出来事だとしか思っていなかった。

それから10数年を経て、
忘れもしない○○病院の4F外科&整形外科病棟401号室に長期の入院をし、
全身麻酔での4時間にも及ぶ手術を経験してからは、
死は見知らぬ他者の出来事ではなくて、
明日、我が身に降りかかる出来事なのだと認識するようになった。

病友の終末期の姿も辛い切ない思いで見ていたが、
私にはどうすることもできないことであった・・・。

病院という場所は人を医療技術で最大限まで生かす場所であり、
最期を迎えさせる場所ではない。
むしろ死を忌み嫌う。
病院で最期を迎えた方々は数人の看護師や職員に見送られ、
全員が裏口からひっそりと搬出される。

病友と病院の裏庭を散歩中に、何度ご遺体に手を合わせたことか・・。

医療関係者はあらゆる手段を使って最期の日を伸ばそうとしてくれる。
その努力には頭が下がるが、私は無駄な延命はして欲しくない・・。

私の母は脳梗塞の後遺症で半身マヒが残り、
施設でほとんど寝たきり状態の日々を 十数年過ごし、
嚥下障害も出てきて栄養補給は胃ろうになり、その後何度も肺炎を罹患し
亡くなる前の二ヶ月間はスパゲティのようなチューブに繋がれ続けた。

胃ろうになったときや、延命の為のチューブに繋がれたとき、
母は何を思い、何を考えていたのだろうか・・・。

住みなれた自宅の自分の寝室で楽に最期の日を迎えられれば最高であるが、
約8割の人が病院で最期を迎える時代、そのようなことはほとんど望めない。
私が住む地域には高級有料老人ホームは雨後の筍のように建設されているが、
無理な延命をしないで心穏やかに、更に人としての尊厳を保ちながら終末期を支え、
安らかに楽に最期を迎えさせてくれるホスピス型の施設も医療機関もない。

病院で最期を迎えざるを得ないのなら、そして、どうせ助からない命ならば、
残される家族の為にも、無駄な延命はしないで早く楽にして欲しいと切に願う・・。
end1
この要望書はワードで作成し、自署で署名及び捺印をしています。
一年に一回はエンディング・ノートの見直しをしていますので、
その時点での心模様や家庭状況で内容が変わる可能性もあります。
101121r
やがて来る散り際想ふ死ぬるとは官能的な夢かもしれぬ
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プロフィール
Author:千風
気が付けば、シニア.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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