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今年を振り返れば、やはり原発事故が一位
半月ほど前、ご近所の奥様にすれ違いざまに声をかけられた。
なんでも、福島県会津地方の親戚から毎年恒例となっている種なし柿が一箱送られてきたそうである。
当然、夫婦2人暮らしでは食べきれない量なので、毎年御近所におすそ分けをしていたが、
今年は福島県の農産物というだけで嫌がる人が多いので、おすそ分けすることに躊躇して、
食べきれなかった残りの柿は腐るに任せていたそうである。
それでも、戦後の食糧難の時代を経験した人なので、
綺麗で大粒の種なし柿が腐っていくのを黙って見てはいられず、
もしかして、福島県産を承知の上で貰ってくれる人はいないかと私に声をかけたそうな。
もちろん、喜んで頂いて生食、柿ジャム、料理にと重宝した次第である。
「消費者の皆様へ」として、会津若松市長名でモニタリング検査結果では
放射能物質は検出されなかった旨の証明書付きで頂いた柿は甘くて美味しかった。

そして一昨日。
今度はお隣の奥様から、やはり親戚から送られてきた茨城産の蓮根を貰って欲しいと、声をかけられた。
福島県浜通りに隣接している北茨城県産なので、放射性物質を極端に恐る人もいるので、
人様に上げるのにも気が引けるのだと言う。
もちろん、こちらも有り難く頂き、酢漬けに煮物にと重宝している。

そして今日。
福島県会津地方の親戚からお歳暮として新米が送られてきた。
お礼の電話をしたら、「サンプル検査はパスしてっから、安心して食べてくなんしょ♪」
と言われたが、サンプル検査にはパスしていても、商売用の米は全部農協に納めはしたものの、
やはり、福島県産というだけで世間の風は冷たく、
丹精込めて作った米は未だに農協の倉庫で眠ったままで、
風評被害を恐れてだろうか?市場には出回っていないらしいと言っていた。



福島第一原発から250キロも離れた我が町にも、原発事故は多大な影響を及ぼしている。
市井の人が線量計で計測した隣の区にホットスポットがたくさんあり、
我が夫も家庭菜園の腐葉土を作るための枯れ葉集めも今年は中止にした。
もし、線量計でもあれば、外出時にでも私の行動範囲を測って歩き、
計測値をツイッター等で報告したい気持ちもないではないが、
わざわざ線量計を買うほどの経済的余裕もなく、おまけにそんな体力も気力も時間もない。
それに万が一にでも、汚染食品摂取で内部被爆をしていても、
どうせ・・夫婦とも死亡適齢期に入っているんだからと、福島県産だろうが、
北茨城産だろうが頂けば食べることにしている。
私が密かに望むべくは・・・
老いてますます口煩くなってきた夫に対しては、何が何でも私が「おくりびと」で、
夫には先に「おくられびと」になって欲しいので
優先的に食べさせることにしているけどね。(^_^;)

そして.............
2011年の大晦日に思うに、
平民の命と平穏な日々の暮らしよりも、
政治家と官僚にとって大事なのは彼ら個々の立場であり、
先ず優先されるのは彼らの個々の事情による利益でしかないのである。

この国に生まれ、この国で生き、この国で死なねばならない名も無き99%の愚民である私は、
戦後66年を経てもなお米国の属国であり続けようとしている
この国の姿勢にある一部の人々の悪意を長年に渡って飽きるほど見てきた。


ヒロシマナガサキのときは、日本人の医師が米軍の要請により、
急性被爆者の「被爆→死に至るまでの経過観察」だけをした実態の
報告書をそのままそっくり米国に渡したという経由がある。
今回も同じように低線量被爆の実験材料及びモルモット観察報告とかの密約を結んでいるんだろうな。
と疑わざるを得ない。

こんな国の政治屋と官僚のことを考えると
この国に希望溢れる未来なんてない・・・よね。

今後は何十年間も放射性物質との闘いは続く。
東日本の人々(特に福島県人)は放射性物質低線量被爆
モルモットとして、何も悪いことはしていないのに、汚染の中で、
また風評被害の中で生きていかねばならない。
そこに、国民目線に立てる心ある真の政治が介在すれば、
不安材料は少しは軽減されるだろうが、
現在の政治の体たらくでは、期待度はゼロ。

「原発さえなければ・・」と
書き置きして自死された酪農家の方の魂は永遠に浮かばれることはなく、
また、いつまで続くか誰にも分からない原発難民の方々の
借り暮らし問題の解決のメドは一切立っていない。
g1g2


国民には二者択一しか頭に浮かばない大多数の愚民だけではなくマイノリティの賢民も存在する。
それでも大多数の愚民たちはマイノリティの賢民たちを攻撃するのが常であり、
それが社会の常識だと信じて疑っていない。
まるで、「大多数の意見は正しい教」の盲目の信仰のごとくに・・・。

真実を見なければ、また気づかなければ、何も変わらずこの国はいずれ破綻する。
自分の不平不満に対しては永遠に解決の糸口さえも見つからず、
相変わらず社会に対する不平不満の中で、不安を抱え、そして老いさらばえて、
脳内で無理矢理に創りあげた幸福とかいう幻想に満足し、
やがては人生を終えるのだろう。

それに福島第一原発は廃炉までには最長で40年もかかるらしいけど、
歴史の生き証人として廃炉を見届けたかったけど、
私はその頃まで生きていられない。
そして、そのころには今の原発を推進してきた政治家も官僚も、
東電の経営陣も御用学者もほとんどが現役を引退してあの世の住人になってるはずだし、
万が一、運良く生きていても、ヨボヨボ、ヨロヨロの耄碌爺さんか、ボケ老人になっている。
つまり、彼らにはそんな40年先のことなんかどうでもいいわけよね。
そう考えると、未来に責任を持つなんてことは、到底考えてもいないことは明白な事実である。
早急に行動し解決なければならない他の問題も山積みしているのに、
まったく動く気配も見えないし、40年後・・つまり団塊世代の大多数が死に絶えた頃、
そのときにまだ日本という国が破綻をせずに、国として機能しているのかしら?



では皆様。
とは言っても、このブログにおいでくださる数少ないご奇特な皆様方だけですが、
今までお立ち寄り頂いたことを心より感謝しつつ、
今年最後の世迷言としたいと思います。

ありきたりではありますが、
「皆様、どうぞ良いお年をお迎えくださいませね♪」

流れゆく

時は優しい

時は無慈悲

時は永遠

時は刹那

時は意地悪

そして、、、

容赦をしない時の流れは切なく哀しい
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tag : 低線量被爆 マイノリティ 放射性物質 モルモット ヒロシマ ナガサキ

それでも人生にイエスと言えるのなら 
今年は千年に一度といわれる大震災があり、
大津波で何万人もの人々が尊い命の灯を消さなければなかった。
また、原発事故で数多の人々が原発難民として住み慣れた故郷を追われ、
今現在も仮住まい暮らしを余儀なくされている。
そんな激動の年の師走。
一昨日まで、我が街は何事もなかったかのように、
夜の駅前の街路樹は電飾イルミネーションでキラキラと輝いていた。

そして今日、既にクリスマス関連商品は跡形もなく撤去されて、
今は街中がお正月モードで埋め尽くされている。
商売人の商魂のたくましさに恐れ入り、
経済第一主義に世迷言のひとつでも言いたいところだが、
言ったところでどうにかなるわけでもなし・・・。
などと、師走のたそがれ時にますます、たそがれの境地に深入りし、
加えて、体力、気力の衰えで、遅々として進まない年末の家事労働に時間を取られ、
自分の24時間を自由に割り振ることのできる独居者ならいざ知らず、
家族がいれば好きなだけPCの前に座っているわけにもいかず、
一時間限定で座ってはみたものの、時の流れるのが速すぎて、
今私は要点を纏めることもできずに、
何を書こうとしていたのか判らなくなってしまっている。┐(´~`)┌ もう、あかん........

まぁ・・・私が生存中になんとか日本という国が破綻をせずに、
年金制度をなんとか持ちこたえてくれればそれでいいような、
我欲丸出しのエゴイスト気分になってしまっている。
そんな、限られた時間の中で、
V.E.フランクルの「それでも人生にイエスと言う」を検索していたら、
或る気になる歌詞の歌を見つけた。
その歌のタイトルは、V.E. フランクルの「それでも人生にイエスと言う」を連想させるかのような、
それでも人生にイエスと言えるのなら

歌詞を書きだしてみた。

いつもね
目に映る遠くの欲しいものを
胸の中でくわえて 
そして 
強がるよ

恥ずかしさより痛いくらいの
悔しさかな
言い表せない想いは
一人で抱えるんだ

願った通りに 
変わってくれる 
出来事は
片手で数える
くらいだから

こう
振り分けられた 
僕らの定め 
明日 
目覚めたって
無いものは無い

必死でもがいて 
涙まで涸すけど 
いつも残るのは
傷跡だけ

「どうして?」って 
泣きじゃくる きかん坊を 
誰もが その胸に 
残しているのさ

諭す言葉 
自分に言い聞かせ続けても
自然に涙がこぼれるのは 
そのためだよ

夢と現実の
落差は激しすぎて
事態を呑み込むにも
苦労して
 
また決めつけられる僕らの器
粋がってみたって 
駄目なものは
駄目

譲れないものが 
あるからと言って 
踏ん張るけど

勝者の名乗りは
あげられやしない
ここから一度だけと立ちあがっても
笑われて終わるだけ
かもしれない

それでも人生にイエスと
言えるのなら
少しは大きな人には
成れたのだろう




あらま残念・・もう夕食を作る時間なので続きは今度再編集で書き足します。

思うに、
宇宙時間で計ったら刹那でしかない人間の儚い生の時間の終焉時に、
「我が人生はNOだった!」と思いたくはなし・・。
どうせ近未来には、嫌でもこの世から消えゆかねばならない我が身なら、
「我が人生は、イエス♪」と思わなければ、今まで生きてきた意義も証も見いだせない。
高齢者にとっては、あるかどうか判らない明日に賭けるより、
今というかけがえのない時間を楽しく一所懸命生きて、ラスト・ブレスの時には、
「それでも、我が人生はイエスであった・・♪」と思って永遠の眠りにつきたいものである。
それが、二度と経験のできない、私という自我に与えられたたった一度きりの人生なのだから。

来世(らいせ)にもユートピアなどないらしいイヴの夜に読みしヨハネ黙示録

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tag : V.E.フランクル それでも人生にイエスと言う それでも人生にイエスと言えるのなら ラスト・ブレス ヨハネ黙示録

遺伝子の夢―死の意味を問う生物学と金正日総書記の死と霊の話
専門的or科学的な語彙の連なる章はチンプンカンプンでまったく記憶に残らないので
ところどころ読み飛ばしはしたけれど、
同じ著者による「ヒトはどうして老いるのか―老化・寿命の科学」を事前に読んでいたので
アポトーシスアポビオーシスという語彙の意味はまだ記憶に残っていたのが幸いして、
遺伝子の夢」=「生と死は遺伝子に支配されている」ようなことを
少しでだけは理解できたような気がしている。

人間の各細胞が遺伝子によりプログラムされた自死後に新しい細胞が再生され、
再び個体としての「生」が維持できている。
だが、心筋細胞や神経細胞などの2度と分裂再生することのない
アポビオーシス細胞であったなら、確実に個体の死に直結する。
それに、60歳を過ぎるとアポトーシス(再生可能細胞)の
個体差はかなり大きいらしい。
60代でも90代の肉体的機能を持っている人もいれば、
90代でも50代の肉体機能を持つ人もいる。
いずれにしても、
修行僧のように厳しく辛い自己節制をして健康を保持しようが、
逆に享楽だけを追い求めて生きていても、
アポビオーシス細胞の自死により、かならず死なねばならない日が来るので、
結局は命の長さは運に委ねるしかないのである。


一昨日、ニュースで流れた北朝鮮の金正日総書記(69歳)の死去も例外ではない。
思うままに人民に苦役を強いる独裁者であっても、またあり余る資産を持ってはいても、
いつかはアポビオーシス細胞が自死し2度と再生することはなく確実に死に至る。
だが、それがいつかは本人は知ることはできない。
金正日総書記の遺体は、旧ソ連の技術を用いた特別な防腐処置をして、
そのままの姿で永久保存されるらしいとニュースで聴いたが、宗教の自由のない国なので、
今後は、どこが偉大なんだか解らないただの独裁者を、
次の為政者に都合よく神格化させて偶像崇拝の対象にさせるつもりなのだろう。

余談だが、「あの偉大なる将軍様が死ぬわけがない!」と、
平壌の女性が泣き叫んでいる映像を見ていたら、
どこかで見た風景だわ・・と記憶の糸を手繰ってみたら、
昭和天皇の崩御のときにも皇居前の広場で同じ風景のニュース映像を見たことを思いだした。
神話の系譜で在らせられるご子孫様でも死ぬんだもの、
そりゃあ、独裁者だってその時期(アポビオーシス細胞が自死するとき)が来れば死ぬわよね。
だけど、北朝鮮の場合はお上の作成による「押しつけ用哀悼の意のマニュアル」があるので、
大げさな嘘泣きの演技や悲しい振りをしないと処罰対象になるらしいわね。
笑える国だけど、また何をするか判らない危険性も孕んでいるし、
今後どうなるのかしらね。

それから、あの後継者と思しき金正恩のおデブ体型には呆れるわね・・。
あんなにメタボじゃあのままでは父親の死亡年齢を超えられないかもね。
でも、今後、軍部の中の権力志向の強い人の元でクーデターでも起こったり、
また虐げられている人民による民主化運動でも起こって、
あっけなく権力の座を追われる可能性も否定はできないわね。

だけど、人民は飢えていても、
為政者たちは暖かい部屋で美味しいものをたらふく食べられる環境に居るんだもの・・
結局泣くのはいつの世も下々の者であり、年貢を取り立てて、
その年貢を自由に使える決定権を持つ為政者たちというのは、
共産主義国家であろうが、資本主義国家であろうが変わりはないわね。



ずいぶん話がそれたので、本の話しに戻るわ・・。

P198~120
死を想い、「死とは何か」を問いかけることは、
「生とは何か」という問いかけと不可分である。
しかし、「死ぬこと」とはどういうことなのかという問いは、
おそらく永久に解くことはできないだろう。
それは、生きているものが、
死ぬことを完全に理解できることは原理的に不可能だからである。
生きているうちに自分の死には会えない。
だれも死を経験することはできないのである。
私たちが死とよんでいるものは、私たちの死についての意識である。
「死んでからのこと」は、やはり科学では語れないテーマなのである。
「「死んでからのこと」は「生まれる前のこと」も含めて、
哲学、宗教にゆだねなければならない。
しかし、それを語るのに「死ぬまでのこと」の科学的知識があったならば、
さらに深い洞察ができるであろう。
ここで取り上げている個体の生と死の問題も、
「細胞の生と死の環」が細胞生物学の命題であるように、
往還の円としてとらえる必要があるだろう。
ここには、人間の根源的な存在を問う哲学の世界がある。
ここからさまざまな死生観、世界観が生まれてきている。
チベットに伝わる密教に『バルド・トドゥル』という経典がある。
ここでは、活動している状態であるこの世は、
ある途中の段階としてとらえられている。
その状態をバルどドという。
そして、この世の活動を止める死は、
再誕へと転生して次のバルドへ移る過程としてとらえられている。
トドゥルとはこの解脱の意味である。
ここでは死は終わりではなく、一つの過程に過ぎない。
人の身体はたえずくり返される生と死の旅の途中であると考えられている。
この世は物質として生きているが、根源は光であると。
人間はバルドからバルドへと永遠の流れのなかから光になっていくのだと説いている。
仏教の基本的な理念としては「輪廻」の考え方がある。
生あるものは死後、三界、六道を経て生に戻り輪廻するというものである。
ここでは、”ある実体”が一つの生命体から次の生命体へと
連続して受け継がれているのではないかと考えている。
このような東洋の死生観は、ここで論じてきた細胞レベルにおける死の意義が、
「生の更新である」というのと同じように、
個体レベルにおいて「死は生の更新のためにある」
ということをすでに語っている。すなわち仏教でいう”ある実体”
とはまさしく遺伝子のことであろう。
この働きによってオートポイエーティックに生命体は生まれてくる。
この新たに境界を作った生命体は、環境との相互作用により遺伝子の発現を変えながら、
たえず変成し続ける自己をつくり出していると考える、
現代の科学が明らかにしてきたことを、仏教はすでに先取りしていたのである。
―ここまで引用―

私という人間の「個体=肉体」が機能しなくなり、医学的には死を認定されても、
仏教という哲学でいう「”ある実体”=遺伝子」は
輪廻転生を繰り返すということなのだろうけど、あくまでも細胞レベルでの話であって、
死後はこの世での「私という自己」の意識は消えてしまうので、
私の遺伝子が何千回、何万回と輪廻しようが、
我思うゆえに我あり」が意識出来ないのであれば、
宗教という哲学などは私にはまったく意味を為さず何の救いにもならない。

ところで、友人に霊感が強いと称する人がいて、
真夜中にときどき霊の存在を感じるそうである。
それも、自己意識のある幽霊の存在を認知できるらしい。
だがあくまでも自称なので、私は今も半信半疑ではあるが
是非とも降霊会でもして私を参加させて、金正日の霊でも呼び出して、
霊というものの存在の証拠を見せて欲しいものである。
そのときには、拉致問題の事実を問いただしてみたいわ。

ちなみに娘時代に今は亡き母に連れられて行った霊媒師の言うことにゃ、
私には母方の祖母が私の守護霊として付いているそうであるが、
現在までなにも感じないけど、ホントかしら?ヽ(~~~ )ノ ハテ?

それから、この世には誰かの生まれ変わりと称する人も大勢いるが、
”ある実体”=細胞レベルの遺伝子がどういう科学的システムまたは霊的システムで
生まれ変わりと自覚することのできる輪廻転生が可能なのか?
肉体という殻を脱ぎ捨てても、念や霊は意思ある存在として残るのか?
これも是非とも知りたいものである。
言っとくけど、念や霊や過去生の存在をを金儲けの道具にしている人や
そういう人の書いた本などは絶対に読まないけどね。(;一_一)

幾世紀転生しても我が生は我思うゆえに今ここに在り
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テーマ : 「生きている」ということ ジャンル : 心と身体

tag : アポトーシス アポビオーシス オートポイエーティック 遺伝子の夢 細胞 金正日総書記 独裁者 輪廻転生 我思うゆえに我あり 降霊会

人生の最期は自宅で迎えたい?
切り抜きしておいた新聞のアンケート記事(人生の最期は自宅で迎えたい?)が出てきた。
アンケート結果によると約5対5で自宅と病院が拮抗しているが、
死ぬ前の平均寝たきり期間は8・5ヶ月であるそうな・・・
そりゃあ、ピンピンコロリで死ねれば、家族の負担も軽く、
本人も肉体的また精神的苦痛にも苛まれずに
あっという間に死ねれば本望ではあるけれど、何事も希望通りにいかないのが人生であり、
輪をかけて希望通りにいかないのが人間の最期の姿でもある。
0002
今日、内臓のガンで入院手術をした友人が無事に退院してプールにやって来た。
痩せてもいず、顔色も良く、体力も以前と同じで元気そうな姿を見て安心していたら、
本人のいうことにゃ・・・

「わたし・・・余命幾ばくもないのよ・・
だって、退院後はお医者様が何をしてもいいって言うのよ。
普通だったら、日常生活での禁止事項や、食べ物の制限等があるはずでしょ?
一昨日も検査に行って来たんだけど、運動もやりたいだけやって結構です。
食べ物も貴女が食べたいものをなんでも食べて結構ですよ。って言われたのよ。
きっと転移していて手の打ちようがないんだと思うわ・・・
徐々に衰弱していって、或る日突然家で死ぬのかしら?
それとも病院に運ばれてチューブに繋がれたまま死ぬのかしら?」
と言う。
そこで、「他の臓器にも転移しているって、お医者様にはハッキリと言われたの?」
と訊いたら、「転移しているとは言われなかったけど、
わたしには転移のことは隠してるんじゃないかと思うのよ。」
と疑いの眼(まなこ)で言う。(;一一)←疑惑の目

彼女は某大学病院で内視鏡手術をし、経過もよく入院期間も予定より早かった。
尚且つ主治医から余命宣告をされてるわけでもなし、
ホスピスを紹介されているわけでもなし、
月に一度か二度の経過観察はあるらしいけれど、
私は「患部を切除して体内からガンは消えました。
これからは、寿命で死ぬまで人生を楽しんでください。」
の良い意味で彼女の主治医の言葉(好きにしても良いということ)を捉えたのだが、
一度ガンを宣告された人には再発や転移という不安の種は
消えない事実として心に巣食ったまま不安の材料として残るのだろう・・。

他の友人の御母堂は40代の時に子宮のガンで子宮の摘出手術をしたが、
88歳の今も元気で動きまわっているそうな。
また私の姪は、なんとなく体調が悪いからと病院に行ったら、
既に手遅れで手術をしても無駄と言われ、余命は半年と宣告され、
一縷の希望に縋り、ホメオパシーを試していたが、奇跡は起こらず、
病院でガンの宣告を受けてから一年・・40代前半の若さで亡くなった。

再発する、しないも・・転移する、しないも、これは運であり個体差であり、
どうすることもできない。

私は彼女に対して心が軽くなる慰めの言葉が浮かばなくて困ってしまったが、
彼女が深刻そうな言い方ではなく、苦しみを分かち合う同病の仲間を求めるような、
また共感を求めるような、また冗談風な言い回しで言うので、

「人は遅かれ早かれみんな死ぬものなのよねぇ・・。
貴女も私も・・そして貴女の好きな韓流スターのヨ○様も、
A子さんが絶世の美男子と絶賛する俳優の○○さんだって、
いずれは死ななきゃいけないのよね。ただ早いか遅いかの違いはあるけど・・」
と言ったら、一瞬の間があって、

「そうよ!そうよね!考えたら、
ナス代さんも私も、ヨ○様もいずれはみんな死ななきゃいけないのよねぇ。
そう言えば、ナス代さんなんか、どんな苦労があるのか知らないけど、
いつも疲れた顔をして、私なんかより早く死ぬ可能性が高いかもね♪」

と、さも不健康そうな顔色?の私を嘲笑うかのような、
また嬉しそうな調子で言う。

私は、「そうね・・彼の世へは貴女よりも先に行って貴女を待っていることは確実ね。
だけど、急いで来ないでね。
私はこの世での苦労の疲れを取らなきゃいけないし、(いったいどんな苦労じゃ?( 一一)....)
多分彼の世ではゆ~っくり、の~んびり休養していると思うから、邪魔をしないでね。」

等の冗談半分、本気半分の会話を交わし、もちろん、私は喜んでその場では
立場上、彼女より先に彼の世に行かせて貰いましたわよ。<(`^´)>

それで、考えたんだけど、人生の最期はどこで迎えたいか・・?
なんて言われても、
私の住む地域には訪問医療専門看取り医の存在なんて聞いたこともないし、
また最期の場所は、既に意識が無くなっていたら自分の力ではどうにもならないはずだし、
文書にしたためてはおいても、死者の生前の気持ちよりも、
残された家族は世間体を優先して、自分たちの気の済むようにしてしまうのが常だしね。

ただ、肉体的、精神的苦痛だけは味わいたくないので、
願望としてはやはり住み慣れた自宅でピンピンコロリで逝きたいわね。

私は最近苦労が多く、疲れたような顔色をしているそうだし、
子どもの頃にかかっていた実家近くの開業医は、
私が風邪で連れて行かれた時に、「この子は将来は心臓かなぁ・・」と、
子どもの私には意味不明な語彙を口にしていた記憶が蘇ってきた。
今思えば心筋かなにかに問題があり、心臓病で死ぬということだろうか?
心臓ねぇ・・。
家族には言っていないが、心臓については違和感ともしかして危ないかも・・の自覚はある。
夜普通に眠りについて、そのまま心臓病で永遠に目覚めない朝を迎える。
そういう最期だったら、100歳まで生きなくても構わないような気がしてきている。

幾度でも生まれ変われる予感してミッションさえも果たさずにいる
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tag : 寝たきり期間 ピンピンコロリ ホスピス ホメオパシー 訪問医療専門 看取り医

ヒトはどうして老いるのか―老化・寿命の科学―
喪中欠礼はがきが届く季節となった。
今年はまだ3通のみだが、届いた喪中欠礼はがきの主(鬼籍に入られた方)は
3人とも女性で「100歳、95歳、92歳」と皆様ご長寿であり、
きっと拍手で彼の世に送られたごとき風情が漂っていた。

思い起こせば、歳を重ねるごとに何事も三日坊主になりつつある私が、
何を血迷ったのか、老いと死をメインテーマにこのブログを始めたのも、
約一年前・・喪中欠礼はがきが届く頃でありんした・・・・・。( ¨)...........

毎日更新したとて、どこからか稿料が入るわけでもなし。(^_^;)
ブログなどというものはあくまでも自己満足な行為でしかないわけなので、
更新頻度などはまったく気にせず、気が向いたら、
そのときに思いついたことを何か書く・・という
ノー天気で尚且つ怠惰なスタンスを貫いているので今まで続けられたのだろう。

さて、昨夜読み終えたこの本は老い~死までを細胞レベルから科学的に説いた本である。


遺伝子にプログラムされた老い→死は避けられず、個体の死とは無になることである。
と断言している。
ということは、誰しもが望む彼の世という霊的な極楽異次元世界や、
ズピリチュアリズムに代表されるような死後の生は存在しないということになる。

ヒトは生物学的にはまさしくアポビオーシスの発動によって、
昨日までの生は残された者(家族等)の記憶の中では生き続けるが、
個体としてのヒトは肉体の機能停止により産業廃棄物になる運命なのである。

それでも、どんなに長寿であっても、この世に不老不死は存在せず、
ヒトが老いたらそのあとに待っているのは死という避けられない宿命であることは
誰でも知ってはいるが、なるべくなら意識からは覆い隠したい嫌な事実であるので、
そのことは考えないように、また見ないようにして、
そして愉しいことだけを考えることが幸せ・・
と言わんばかりの幸福病、ポジティブ病も良いが、
老いて徐々に肉体のパーツにガタがきて、
やがては自力では歩けなくなり、また寝たきりになっても、
それでも前向きに生きなくては!と頑張れば頑張るだけ、反動は大きく、
そうなってしまった自分を受け容れるのは容易なことではないかもしれない。

あそこが痛い、ここが痛いと言いながら、老いを生きる者として、
自分が近い将来確実に無という存在になるという事実を、
ときどきは思い起こさないとね・・・。

難しい生物学や遺伝子学の横文字の語彙のほとんどは記憶に残っていないが、
アポトーシスアポビオーシスネクローシスの意味と働きだけはなんとか記憶に残せたし、
プロローグとエピローグに書かれていた著者の人生観は同世代の私には大変参考になった。

それから、生物の一生は成長期、生殖期、後生殖期に分けれられるらしい。
人の老後とは後生殖期であり、生物学的にはもう生殖期の終わった、
つまり、繁殖機能を失ってしまったゆえに、自然には無用の生物ではあるが、
人間以外の他の動物にはない人間だけに与えられた?特権がある。
それは「おまけの人生」=「老後」という時間である。
そのおまけの人生をどう生きるか?について、著者は言う。↓
P9~10
20世紀の生命科学が明らかにしてきた事実のなかに、
「ヒトは進化の過程で可老可死を選択した生物から生まれてきた」
ということがあります。
つまり私たちは、生物が繁殖してゆくプロセス―生命サイクル―のなかに
死を組み込んだ生物の末裔なのです。
それではこの21世紀、これまでにない高齢化社会を迎えて、
「老いと死」をどうとらえていったらよいのでしょうか。
この、上り坂なのか下り坂なのかわからない、
ゆるやかなカーブの向こうに、一体何があるのでしょう。
どんな老いを歩むのか、またどんな死に方をするのか。
それは誰にもわかりません。
そんなとき、「なぜ老いるのか」「なぜ死があるのか」、
その"なぜ(Why)"を科学的に問うことに、大変重要な意味があると思います。
それは、この"なぜ"を問うことのなかに、老いを有意義なこと、
素晴らしい希望に満ちたこととして迎え、
生きてきてよかったと思えるためのヒントが隠されているからです。
人間は一人ひとり、唯一無二の存在として限られた時間を生きています。
そして齢を重ねることによって、自分のなかに時間と記憶を堆積し、
思考と精神をとぎすますことができるのです。
つまり、アイデンティティ(identity:個別性→個性)を
成熟させることができるということです。
「老い」はこのアイデンティティを追及し認識することではないでしょうか。
「自分とはなにか」という問い、あるいは「自分の夢を」
を追及できるかけがえのない時間が
「老い」といってもよいでしょう。
そして死によってそのアイデンティティが完結するのです。

P192~193
”一度限りの人生と”とよく言いますが、
その「有限」であることを本当に意識することはなかなか難しいことです。
しかし”人生の意味”を求めるならば、生命は「有限」であること、
すなわち「死」のあることを自覚しなければならないはずです。
「死」を前提として今ある「生」を意識することが大切なことだと思います。
そこから遡って「老い」についても、科学的な知識をもとにして考えるのがよいでしょう。
そして、堅苦しく論ずる必要はないのですが、
自分自身で「老いの哲学」「死の哲学」を持つことが大切なことだと思います。
それがなければ、「生」自身が不明瞭なものになってしまうからです。

―中略―

老化は特定の遺伝子に規定されているものではありません。
遺伝子として本質的に与えられているのは寿命、つまり「死」なのです。

―中略―

だから、年齢によらず、「死」のあることを意識すれば、それを前提として、
「生」を考えることができれば、善い精神性が育まれることになるはずです。
ただ生きようという方向のみでは、
なんのために生きるのかという内省もできなくなってしまいます。
快適に楽しく生きましょうというだけでは、何の精神性も目覚めてこないのです。


半哲学的な「生と死」の論評はさておいて、
では生物学的にはどうすれば、より良き後生殖期(老後)を送れるかというと、
この本では米国立老年学研究所でヒトに近いアカゲザルの動物実験の範囲ではあるが・・
P156
摂取カロリーを30%減らした摂食群のほうが、
癌、心筋梗塞、糖尿病などの生活習慣病の発症が少なく、
長生きになることが確認されています。
しかし、極端なカロリー制限(ダイエット)を続けると、
肉体的にも精神的にも悪影響がでてきてしまいます。
また、免疫力が低下して感染症や癌が発症する危険性も高くなってきます。
適度にカロリーを制限して、バランスのよい食事を摂るようにすれば、
ヒトでも寿命を延ばせる可能性は十分にあると考えられます。

と書いてある。

私が他の本や健康番組等から見聞きした情報を整理すると、
要は、
「バランスのよい食事」+「適度なカロリー制限」+
「適度な運動」+「長生きの為に必要な25%の長寿遺伝子
が複合合体されて初めて長寿者となれるらしい。
バランスのよい食事の内容とは、「炭水化物、タンパク質、脂質」の割合である。
先日たまたま観た健康番組に出ていた平均年齢92歳のご長寿4姉妹の食事内容の黄金比率は
「炭水化物60% タンパク質20% 脂質20%」であった。

私の場合を当て嵌めてみると、
「バランスのよい食事」・・・・・・・△
「適度なカロリー制限」・・・・・・・△
「適度な運動」・・・・・・・・・・・○
「長生きの為に必要な長寿遺伝子」・・×

やっぱり、このままでは生物学的に鑑みると、
すでに後生殖期に入ってしまった私の目標である
100歳までは長生きは出来そうにもないけれど、
老化のスピードには個体差が大きいのでまだ間に合う可能性もある。
無理な頑張りはストレスでガンを発症する恐れもあるので、
無理には頑張らないけれども、簡単に諦めない程度のスタンスで、
少しづつ改善していこうと思う。
何もしないで死ぬときに後悔するよりも、
実行してそれでも駄目だったら、諦めも付くじゃない?(^_-)-☆


喪中はがきに書かれていた「100歳、95歳、92歳」で
亡くなられた友人の御母堂様たち・・。
彼女たちも生物発生以来、38億年も繋がる遺伝子のリレー走者として走り疲れ、
事前にプログラムされていたアポビオーシス(個体の死を司る非再生遺伝子)が
発動=自死して各個体は「絶対無」になられた。
私もいずれ行く道・・とはいえ、生物学的に見ると、
ヒトには未来という刻(とき)などはなく、
また来世などという居心地のいい場所なども妄想の産物でしかなく、
今という瞬間があるのみなのである。
私のアポビオーシスのプログラムが発動される日は知りようもないが、
今日や明日でないことだけを願いたい・・・。

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テーマ : 「生きている」ということ ジャンル : 心と身体

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Author:千風
気が付けば、シニア.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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