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葬式仏教からの決別宣言
ひとつひとつ確認しながらの人生最後?の身辺整理が遅々として進まない。
今日は日記類の整理中であったが、
「母の葬儀の記・・死亡連絡から三回忌まで」が目に付いたので
改めて読み返してみた。

私が母死亡の連絡を受け、新幹線とローカル線を乗り継ぎ、
やっと実家に駆け付けたときには、
喪主も葬儀社も葬儀ホールも葬儀の規模もすべてが決まっていた。

母は20年近くも特養に入っていたので、
親戚付き合いはほとんどなかった。
なので・・家族だけで、こじんまりと自宅で葬儀をするとか、
母と付き合いのあった親戚はどの範囲まで連絡をするか?
などのことを少しぐらいは私の意見も聞いて欲しかったが、
実家の近くに住む妹とその夫が葬儀社の手配から
お寺への連絡までのすべて仕切っており、
死亡連絡から通夜、葬儀、火葬、初七日、精進落しまで、
私の出る幕は一切なかった。
名家でもなく、由緒正しい家でもない我が実家である。
地方都市とはいえ、昔ながらの地域の慣習による葬儀形態も消滅してしまった今の時代に、
何が何でも、世間の常識に右に習えの仏教式葬儀は今の時代にそぐわないと私は思った。

それから、我が実家のある地方紙では地域版に無料で死亡広告が出せるので、
一応は掲載だけはしてもらった。
そして、葬儀の翌日に、「死亡広告を見ましたのでお悔やみに・・・」
と訪ねて来た人がいる。私は亡き母の知り合いかと思い、
丁重にお相手をしてお茶まで出したのだが、
その人の正体は地元の仏壇と墓石のセールスマンであった。(^_^;)
仏壇も墓石も既にあるので早々にお引き取りを願ったが、
後にも先にも、新聞の死亡広告を見て訪ねてきた人は
そのセールスマン一人しかいなかった。
結局、母の遺骨は母が生前に準備しておいた墓に当然のごとく納骨された。


私は叔父と一緒に会計役を仰せつかり、確認し合いながら、
収入(香典)や支出を一円も間違えることなく記載していたので、
お金の流れと用途が一目瞭然であり、
葬儀費用で一番多い支出は
お布施や戒名料に代表される寺に払うお金である。」ことに唖然とした。
たかだか、通夜と葬儀、火葬後に執り行う
初七日に各10分程の読経で各3万円也(事前に住職がお布施額を言った)を払い、
住職に来て頂く度に御膳料(5000円)とお車代(5000円)も払った。
そこに戒名料が加わる。
遺族は最低ランクの「○○○○○信女」でいいと考えていたが、
住職は頼みもしないのに、「○○○○○大姉」の戒名を付け、
戒名料は30万円であった。
世間相場から言えばかなり安いとはいえ、
葬式専門仏教宗派の御本尊様であらせられる釈迦牟尼仏様は
戒名料で差別する御存在であらせられるのでありましょうか・・(^_^;)

そして、四十九日に納骨をしようと思っていたら
お寺の隣の墓石屋さん(80代のヨボヨボ爺さん)が急病とかで、
カロートを開けることができずに、
納骨は一回忌にすることにしてお寺に預けることにしたが、
そこにも預け料(年間一万円)がかかる。
さらに、四十九日、一回忌(納骨)、三回忌はお寺の本堂を使わせて貰ったが、
そのたびに、3万円+御膳料(5000円)とお車代(5000円)を払った。
他には花とお供えの果物も必要と住職の奥さんが言うので、
その代金(5000円相当)もかかったが、
花とお供えの果物(高級メロン2個)はお寺の御本尊様のお供えとして
置いてくるものだと聞いたのでそのままお供えをしてきたが、
御本尊の釈迦牟尼仏様がメロンを召しあがるわけもなし、
食べ頃の高級メロン2個は住職とその家族が食べたのだろうか?
と気になった。
私も食べたことがないような高級メロンだったことを
思いだしたのでありました。(笑)

考えると、こちらがお寺まで車で行ったのに、
どうして住職にお車代(5000円)も払わなければいけないのか?
実際の葬儀代金の約半分は、領収書の出ない寺の収入になることに、
私は今も納得がいかないでいる。

そして、檀家会には強制的に入会しなければならず、
維持費(年間一万円)も払わなければならない。
奉仕活動(墓地の清掃作業等)もあり、
実家が檀家契約している寺は、本堂が今にも崩れ落ちそうなので、
そのうち多額の寄付を募ることがあるかもしれない。
一度檀家になってしまったら、こちらから檀家契約を破棄をするまでは、
子孫代々まで、あるんだかないんだか、誰にも判らない「死者の霊」というものを
利用した寺の住職とその家族に給料を払っているようなものなのかもしれない。

実家に負けず劣らずに我が家も名家でも旧家でもなく、
金目のものなど何もない都会のウサギ小屋に住む私と夫が、
どちらが先にあの世に行くかは判らないけれど、
死に因ってこの家から居なくなっても、
家としての歴史も守らなければならないモノも尊厳もなにもない。
古くなった家は子どもたちの意思で解体され、
土地は更地にされて売り飛ばされ、
土地の売却額は法定相続分で分けるのがオチだろう。
親の死はそのときは悲しく?ても、老いて寿命で死んだのだから、
当たり前の自然の摂理と受け止め、相続の面では子どもたちは喜ぶだろう・・。( 一一)

いやちょっと待って・・。親の死が悲しいかどうかなんて判らないわよね。
例えば私が認知症で紙おむつをしていて、そこらじゅうを徘徊しながら、
何回も交番の御厄介になっていて、100歳ぐらいまで生きたとしたら、
親を亡くした喪失感よりも、「やれやれ、やっと逝ってくれたわ。ヽ(^o^)丿」と、
心の中では大喜びをし、安堵感のほうが大きいかもしれないわね。
ホントにボケたら周りは迷惑この上無いかもしれないけど、
本人は死の恐怖からも解放されて楽に死ねるかもね。

想像上の我が将来のことはさておき、
寿命を全うして亡くなった人の葬儀や供養は、
残された遺族がやりたい方法でやればいいと私は思う。
昨今、私の知り合いや親戚でも、葬儀は家族だけでの無宗教葬が増え、
仏式にこだわる人たちでも、法事は家族だけですることが多くなった。
格のある名家で、どうしても仰々しい葬儀や法事でなければならない家は、
豪華にやればいいし、私のような名も無く貧しき者は、直葬の後に
「故人を偲ぶ会」として食事会でも執り行えば、
私の実家の場合で計算すると4万円(お布施3万、御膳料5000円、
お車代5000円)が浮く。
4万円もあれば、家族だけでの自宅での「偲ぶ会」は
食事だけでも立派に開催できるはずである。


しょうもない思い出話と世迷言ばかりが長くなったが、
ここからが今日の本題である。


一昨日、我が夫が、孤独死孤立死の新聞記事を読んでいて、
「明日はわが身だなぁ・・・・・
死んでしまった者に葬儀で大金をかけるのもなぁ・・
そうだな・・俺のときは、
あなたと子どもたちの今後の生活と社会生活を優先してくれれば、
直葬でも、平均的な葬儀でも、無宗教葬でもなんでもいいよ。」

と自分から終活話を持ちだしてきた。

やっと夫自身の終活に対する思いを言葉で確認できたので、
夫が先に逝った場合は葬式仏教からは決別し、
直葬or無宗教葬で永別の儀式を執り行うように腹積もりをした。

将来的に子どもたちが、檀家の維持費や寄付等を払ったりの金銭的負担や、
寺への奉仕活動や手間とは無縁になることだろう。

そうは言っても個人の宗教に対する価値観の違いを否定はできないので、
極楽浄土を信じる人や、信じたい人。
また世間体でどうしても仏式での葬儀をしたい人は葬式仏教ですればいい。
それで心の安寧と安らぎを得られるのなら・・。


歴史的には、葬式仏教は曹洞宗が始めたらしいが、
まさに死者を利用した集金システムでしかないように思える。
そして、私から見れば皮肉なことに、我が実家は曹洞宗の寺の檀家なのである。



昨年の大震災の際にも、
位牌を取りに戻って大津波に吞まれて亡くなった方々もいたと聞く。
位牌さえなければ、大津波にまれることなく生き残れた人もいたかもしれない。
戒名ソフトで作成されたであろう?戒名が書かれた位牌と称される単なる木片に
生死まで分けられてはたまったものではない。

位牌や仏壇に開眼法要(魂入れ)をしたから、その木片には魂が宿っているとしたら、
仏教者は全員が超能力者ということになるが、そんな事実は誰が考えても有り得ない。
私には死者を利用した、総本山から末端の寺までの集金システムという
葬式仏教に組み込まれているご都合主義な儀式などは必要ない。

たまたま、期せずして検索に引っかかったお坊さんのブログを読むことがある。
そこには、「葬儀という別れの儀式をして、戒名を付けて、
読経をしないと死者の魂が成仏できない。」
などと書いてあるが、仏陀(釈迦)の本来の教義とかなりずれていることは否めない。
ということは、枝分かれした多数の仏教の宗派という存在における、
自分の宗派に都合よく誇張拡大された経済的問題なのだろう。

若くして不慮の事故や自然災害で亡くなれば、死別に伴う苦痛は大きく、
なかなか喪失感や悲嘆は癒えないだろうとは思う。
そういう時は、日本人の特性として、どうしても宗教者に、
祈りや供養を頼みたくなる心情は理解はできる。
だが、死者への鎮魂の祈りとは言うが、
実際は理不尽な死を遂げた死者たちへの鎮魂の祈りではなく、
愛する家族の理不尽な死を認められない残された家族への鎮静の祈りのように思う。

私のようにいつ死んでもおかしくない死亡適齢期に入った婆さんならば、
「彼女の寿命だったのよね・・。」程度で、私の死は簡単に片づけられるだろう。

いつになるかは判らないが、私は確実に死ぬ。
そして、そのときに真実が判るだろう。
日本の宗教文化の中での「成仏」とは、Wikipediaでは、
『死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、
成仏」ができない、ということは、
死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。』

と書いてある。
仮に死が『絶対無』ではないのであれば、できれば死後は成仏などしないで、
霊魂になって現世と来世の間をゆらりゆらりと自由に永遠に彷徨っていたいものである。

冬春を分かつメロディ奏でつつ弥生の空に温き雨降る
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Author:千風
気が付けば、シニア.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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