我が生のエンディングのためのセオリー
2013-04-26(Fri)
NHKスペシャル「家で親を看取る その時あなたは」
現在、日本人の8割が病院で亡くなり、“在宅死”はわずか2割ほど。
超高齢化が進む中、国は「看取りの場所」を「病院」から「在宅」へと転換する政策を打ち出した。
2012年を「地域包括ケア元年」と位置づけ、年老いても住み慣れた地域で暮らし、
最期を迎えられるよう、在宅医療や看護、介護サービスの整備を進めている。
「治療は終わったので病院以外で療養を」と早期退院を求められる高齢者と家族。
しかし24時間対応できるヘルパーや在宅医など、在宅医療を支える社会インフラは不足し、
家族は“老い”や“死”を受け入れられず、苦悩を深めている。横浜市で診療所を開く在宅医は言う。
「これまで医療は命を延ばすためのものだった。これから必要なのは“死に寄り添う医療”だ」と。
人口に占める高齢者人口の増加率が全国一の横浜市を舞台に病院や在宅医療の現場をルポ。
「在宅の看取り」に何が必要なのかを探っていく。
最近、抗うことのできない老病死の現実に向き合っているせいか、
この手の番組を録画して観る機会が増えた。
我が家の場合、夫婦ともに既に親はこの世にはいないので
「家で親を看取る その時あなたは」には該当しないが、
「家で夫を看取る その時あなたは」
「家で看取ってもらうとは そのとき私は」
の参考にしようと思った。
病院というサービス業においては、長期の入院患者では
徐々に点数が減って儲からない仕組みになっている。
そこで国は、病院を儲けさせるために、
これ以上の回復の見込みがないと思しき末期高齢者の患者には
「治療は終わりました。国の方針なので退院を!」と迫り、
今後は在宅で介護せよ!と言う。
介護する意思があり、尚且つ、介護者として体力のある家族がいて、
懸命に介護をしてもらって、そして、看取ってもらえるのであれば、
それは、世間的には天寿を全うした。ということで、
ある意味ハッピーエンドな最期と言えるかもしれない。
だが、終末期を介護してくれて、そして看取ってくれる人間がいない場合、
「家には誰もいない・・その時あなたはどうするのか?」
のほうが重要な問題提起のような気がした....。
前にも書いたが、死生観の違い?だろうか。
欧米諸国では嚥下力が落ちて、口から食べられなくなったら、
日本のように苦痛を長引かせるだけの延命治療はほとんどの場合はしない。
私の母の場合などは、嚥下力のなくなった母に対して、
近くに住み、尚且つ緊急連絡先になっている妹が、
医師からの胃ろうの是非について、
母の意思を確認せずに何の疑問も抱かずに胃ろうを承諾した。
胃ろうを付けてまで生かされる母の苦痛などは眼中になかったかのように・・・。
そして、母が胃ろうを付けて数年後・・・
何度も胃ろう設置後の逆流による誤嚥性肺炎に罹り、
ある日、その誤嚥性肺炎で呼吸が止まり、心停止してもなお、
妹の希望で蘇生措置として電気ショックによる心肺蘇生措置を施したが、
医師の努力も虚しく、あっけなく還らぬ人になった。
妹は、母に胃ろうを付けたことで数年間長く
母を生きながらえさせたことを誇らしく思っている。
最後の最後まで私が母を生かしてあげたのだと・・。
結局母は、「死はタブーである」と考えている、
世間の一般的常識というものを重んじる前向き指向の妹に
苦痛を強いられ、ただただベッドから天井を見上げるだけの
「自らの意思で生きている」とは言えないような、
「他者により生かされている」だけの状態で
無理矢理に肉体だけを生き長らえさせられた?
のかもしれない。
団塊世代の人々の多死時代を迎えつつある今、
病院では看取って貰えず、特養などの年金収入だけでも
なんとか入所できる介護施設も満員で入れない。
もし、私が運よく生きていればと仮定しての話だが、
2030年頃には私は死に場所のない後期高齢者になっている。
ゆえに戻れるところは朽ちかけたこの家しかない。
だがそこには家族はいない・・。
では、誰に看取ってもらえばいいのか?
介護保険での生活援助ヘルパーに来てもらっても、
生活援助の現行の45分では短すぎるし医療行為もしてもらえない。
また、30分延長すれば、その分は全額自己負担しなくてはならないし、
経済的負担ものしかかって来る。
訪問看護師も来てはくれるが、介護保険の支給限度額内で収めようとすると、
週に1~2回程度しか来てもらえないのが実情だ。
なので、24時間介護してくれる家族=看取ってくれる家族がいないときには、
45分間だけ滞在するヘルパーが看取りの綱だが
ヘルパーがいないときに突然容態が急変したら、
自力では電話も出来ない状態なのだから選択の余地はなく、
いわゆる孤独死をするしかない。
私自身は孤独死をそんなに恐れてはいない。
病院で苦痛極まりない延命治療をされながら死んでゆくよりも、
自宅で苦しまずに逝けるのならばそれでも良いと思っている。
遺体はいずれは発見され、孤独死として処理されて行政解剖されるかもしれないが、
そのような死に方も、国民の大多数が社会保障費がますます削られるのを承知で
低福祉社会を推進する政権を選択したこの国では人生のエピローグの迎え方として
孤独死を否応なく受け容れざるを得ないのかもしれない。
死に方のセオリーさえも拒否されし連続体としての生をもまた
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