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日本人の死生観はアニミズム信仰のDNAから抜け出せない?・・М様からの「仏教をどうお考えですか」への返答も兼ねています。
北海道のМ様からメールフォームを通して、当ブログの
葬式仏教からの決別宣言には同感の意を表明していただきましたが、
「その昔釈迦が興したといわれる仏教という宗教については
どのようなお考えを持っておられるのか、
何かのついでのときでよろしいですから、
お示しいただければ幸いです。」
との、ご丁寧なお言葉遣いでの真摯なご質問を頂きました。

私は仏教については葬式仏教における死者への儀式程度しか知りませんし
また、仏教史についても、
高校時代に日本史で習った程度の拙い知識しかありません。
それでも最近では歳のせいなのか・・?
「大法輪」という仏教系の雑誌を読みたい特集記事のあるときだけは購入したり、
bible
聖書」「コーラン」「チベット死者の書」も一応は時間をかけて読みましたが、
無知無学の所以でありましょうか、ほとんど理解不可能でありまして、
未だに「仏教を含む宗教とは何ぞや?」に対して私なりの正解は出ていません。


また、今までも仏教について深い思索を重ねたこともなく、
確固たる信仰を持っているわけでもなく、
現在は「人は死ねば無になる、霊や魂は存在しない」
との考え方から抜け出せないでいます。

そういう理由から、拙い知識に因るイメージと直感だけで
私の仏教についての思いを述べさせて頂きます。

私の実家には、私が生まれる以前から古い仏壇があり、
戒名の判読もできないほど色褪せた位牌が仏壇に置かれていました。
私が物心が付いた頃からは母に頼まれて、毎朝、朝炊きたてご飯とお味噌汁と
野菜の煮物やお漬物を仏様に供えるときには、
当たり前のように毎朝仏壇に手を合わせ、南無阿弥陀仏と唱えていました。
ですから、知らず知らずのうちに我が家は仏教徒なのだろうと思っていました。

ところが、今になって遠い記憶を掘り起こしますと、
祖父母も父母も熱心に仏教を信仰している様子でもなく、
お寺に頻繁に行くわけでもなく、
お盆やお彼岸に住職を呼ぶこともありませんでした。
つまり檀家には属しておらず、父が亡くなって初めて、
母が曹洞宗のお寺と檀家契約をしたようです。

今思えば、我が祖父母も父母も敬虔な仏教徒には程遠く、
仏教伝来以前の日本人に古代から連綿と続く、
アニミズム信仰(生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、
もしくは霊が宿っているという考え方)
でしかなかったのだと思えてならないのです。


そして、ここからは、私の仏教に対する思いを、
代弁してくださっているかのような
日本の著名な宗教学者の山折哲雄氏の
著書「地獄と浄土」から一部を引用させていただきます。

ご周知のように、日本人の間に今日も色濃く存在し、
しかも大きな影響力を持っている信仰として祖先崇拝があります。
この祖先崇拝というのは必ずしも普遍的な信仰形態ではなくて、
たとえば世界の文明国家のそれと比較しても考えてみましても、
ヨーロッパ世界におきましては、はるか昔のローマ時代を最下限として、
この祖先崇拝というものはすでに消滅している。ところがこれに対して、
アジアにおいては、祖先崇拝は非常に根強く伝承せられているのですが、
そのなかでも特に日本の祖先崇拝は、その細密な儀礼体系からいっても、
また共同体と深く結びついたあり方からいっても
ある意味で世界に冠たる文化的特徴を
示しているのではないかと思えるほどであります。
 



そういう祖先崇拝の根底には必ずその民族や社会に
特有の霊魂観というものが潜んでいると思うのです。
とすれば、日本に仏教が輸入される以前の日本の社会、
あるいは日本人にとりまして、
いったい人間の霊魂というものはどのように
とらえられていたのかという問題がでてくるわけであります。
端的に申しますと、肉体と霊魂というものは
分離したり結合したりするのだという観念が非常に強くあったと思います。
これは「万葉集」をはじめ「古事記」「日本書紀」などに、
色濃く現れている思想でありまして、
いわば遊離魂に関する問題であります。



いずれにしても記紀・万葉の古い時代におきましては、
日本人に固有の霊魂観のなかに、霊魂と肉体は分離したり、
結合したりするのだという考え方が、
重要な前提としてあったのだと思うのです。

ところが、そういう日本人の霊魂観のなかに仏教の思想が入ってまいりますと、
当然大きな変化が起こるはずであります。
と申しますのは、仏教は言うまでもなく霊魂の存在を、
建て前として認めておりません。
釈尊の教えによりますと、
霊魂があるかないかという問題を単に形而上学的にのみ議論するな、
という意味のことを言っている。
釈尊はけっして、そもそも霊魂は存在しないのだとは
言っておらないのですけれども、
とにかく存在するかしないかということを
いくら議論してもこれは結論は出てこない。
結論が出てこない問題に執着するのは本来の仏教の立場ではない。
こういう見解だろうと思います。
しかしとにかくそういう霊魂というものを建て前として
正面から認めていないのが仏教の根本的な立場であります。
とすれば、そういう霊魂を認めない思想としての仏教が日本に移植されますと、
それ以前から日本人が生活の根底に強く持っていたところの、
今述べましたような霊魂観と、それは激しくぶつかり合うことになる。
異質の文化の衝突が発生するわけでありますが、
そこでは当然日本人の固有の霊魂観も変わってこざるを得ないし、
同時にインドから中国を経て伝来してきた仏教の固有の思想も、
これまたそういう日本の風土において、
その霊魂観とぶつかり合うことを通して変化せざるを得ません。


阿弥陀仏のような超越的な仏が行者の前やわれわれの前に現れてくるのは、
現実のこととしてあり得ない。具体的なこの実在の世界、
現実の世界に阿弥陀仏が近づいてくるということはあり得ないわけです。
現実的には絶対にあり得ないそういうことが、
どうして可能かというと、
夢のごとくに現れてくる。そして夢のごとくに仏と邂逅できる、
というのであります。
ところでこのような考え方がさらに徹底しますと、
われわれの心身が浄められた時、そこに仏が宿る、
映発するという考え方が出てまいります。
仏は外部にあるのではない、われわれの心身の中に内在するのである。
あるいはわれわれの心そのもののなかに存在している。
それはわれわれの外部に超越しているのではない。
われわれの心と身体の統合体のなかに潜在している。
ただ問題なのは、それが実際にわれわれのうちに現れてくるか、
現れてこないかということである。
それでは現れてくるためにはどうしたらいいのか。
そこから、自分の心、全体としての心身の活動を浄化するほかに
方法はないという態度が出てくるわけです。
そしてこのような考え方は、実はインドにおける仏教の発展のなかで、
ずっと古い以前から言われてきたことです。
心が清浄であれば、そこに浄土が自然に現れる、宿るという考え方は、
インド以来伝統的な考え方なのであります。
それを、日常的な経験世界における心理的な事象に結びつけて考えたところに、
この「如想念」という宗教思想の独自性があると私は思うのです。


現代の日本社会は明らか「地獄嫌い浄土好き」の傾向を示しはじめている。
この高齢化社会にあって安楽のうちに死を迎えたいという願望が
うなぎのぼりに高まっているためなのだろう。
癒しという言葉が流行っているのもおそらくはそのためだ。
誰でも地獄のイメージの中で癒されたいとは思っていない。
癒し願望というのは、要するに現実世界を浄土に見立てて、
その中で自己を回復し開放しようとする切実な思いのことなのであろう。


Aなるものは、そもそも存在するのか。
単純な設問である。
それに対する応答の第一はAは存在する、である。
これを有の立場という。
第二のパターンはいうまでもなく、
Aは存在しない、であろう。
これを無の立場という。
そして第三に、Aは存在するのでもなく存在しないのでもない、がくる。
これを非有非無の立場という。



神話や絵画や文学に登場する数多くの地獄の描写は、
一面では永遠を祈求する人間の裏返しにされた意識を表していますが、
他面では醜なるもの、グロテスクなものに対する
切実な関心とコンプレックスを含んでいます。
美の中に醜を見、醜の中に戦慄を嗅ぎわけようとする快感に、
それは似ていないでしょうか。
われわれの心のうちに潜んでいる悪意や殺意や怖れの感情は、
美や極楽の世界ではけっして安定しないのであって、
醜と戦慄の万華鏡のなかではじめて鎮静することができるという洞察が、
東西の地獄学の系譜のうちには底流しているようであります。
引用ここまで----


引用による前置きが長くなりましたが、
他宗教ながら、イエスの逮捕時に逃亡した若者がいる。
墓でイエスの復活を告げる若者は果たして同一人物なのか?
という本も出版されています。

果たして釈迦も実在の人物だったかどうかは疑問の残るところですが、
日本の仏教各宗派による経典の解釈の違いは無視するとして、
私は釈迦は宗教家ではなく、鋭い洞察力と直感力を持ち合わせた
偉大な思想家だと捉えています。


また、釈迦が興したといわれる仏教という宗教ですが、
釈迦が本当に説いた教典が存在しているのかどうかは私ごときには分かりませんし、
一方、現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、
「釈迦は輪廻説を前提としておらず、
インドに古代から信じられて半ば常識化していた輪廻を
直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」
と主張する者も少なくないそうです。

如何様にでも解釈は自由ですので、
本来の釈迦の教えは歪曲されている可能性も否定はできません。

また、アンブローズ・ビアスは悪魔の辞典の中で、
宗教とは「希望」と「恐怖」の間に生まれた娘で、
「無知」に向かって不可知の性質を説明する。
お前さんや、お前さんの宗教はなんじゃな」リームズの大司教がたずねた。
「お赦しください、大司教様」ロッチェブリアントは答えた。
「お恥ずかしい次第です」
「では、なんで無神論者にならんのかな」
「そんなことはとても。無神論なんて滅相もない」
「それならばじゃ、プロテスタントになるがよいぞ」

他にも劇作家の別役実氏は「当世悪魔の辞典」の中で
宗教とは「結婚式と葬式のためのドラマツルギー」
マルクスは「宗教は民衆の阿片である。」
     「神が人を創ったのではない。人が神を作ったのだ」
レーニンは「宗教は毒酒である。」
ニーチェは「キリスト教は弱者の宗教であり負け犬の遠吠えでしかない」
と簡単に切り捨てています。




M様は「墓の掃除をし、燈明と線香をたき静まり返った
静寂の中で手を合わせしばし墓前に佇づんでいると、
思いかけず心が澄み渡り悠久の時の流れと空間を感じます。
大げさに言えばこれがもしや仏国土とやらを垣間見ているのかも、
と思ったりします。この墓参のときのこの感覚がとても好きです。」
また「仏教という宗教は線香臭いことを抜きにすれば
ひとつの宇宙観を持った宗教であるといえます。」
と述べられています。

確かにM様がご指摘のように、宇宙は全体として、ひとつの生命体です。
そして、仏教の教えの基本は、この世に偶然に起こることは何もない、
すべての原因を変えることでより良い結果を生み出さなくてはならない、
仏教ではこれはカルマの法則と呼び、
現代科学では原因と結果の法則と呼ばれています。

M様のように心身の浄化のために日々精進され、
そして癒され、心が安寧をお感じになるのでしたら、
私のような不信心者には到達し得ない境地であるところの
全体としてひとつの生命体である宇宙そのものになる神秘体験を得る能力を
会得されたのではないでしょうか。

それとも・・・私の想像でしかありませんが、
もしかして、お釈迦様とご先祖様の霊に
ご加護される域に到達なされたのかもしれません・・。
その根拠としては、
脳の側頭部の深い場所には神の領域と言われる部位があるそうです。
この部位の神がかりな体験は理性をも制圧し、
恍惚感及び神仏との一体感と思しき確信をもたらすそうです。



例え、イエスも釈迦が架空の人物であろうとも、
私は思想家としてのイエスと釈迦の思想=教えそのものを
否定するつもりは毛頭ありません。

生まれも育ちも日本である私のDNAには、
古来よりのアニミズム信仰がどこかに存在していると思っています。
それに、信仰問題は別にしても、
日本人である私には仏教が一番しっくりくることだけは確かです。

とは言いましても、来世があるかどうかについては今現在は、
超ひも理論による来世という異次元界は存在しない・・
と考えておりますが、もし、今後、命に関わる大病に罹り、
ホスピスに入るようなことがあったら、
来世を信じるかもしれません。
また、そのホスピスがキリスト教系だったら、
あるかないかも解らない天国に行きたいがために、
取引として迷わずに洗礼を受けるかもしれません・・。

チベットの死者の書が言ふ中有(バルドゥ)は己の生前の生き方に在りと
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Re: 仏教について
HEBA様へ・・
ご丁寧なお返事、恐れ入ります。
確かに私も、HEBA様と同様にキリスト教の欺瞞性には
ついていけない部分が多々ありますが、
仏教についても然りではないかと思うのです。
キリスト教とイスラム教の元々の神なるものは同一でありながらも、
教義である旧約聖書の解釈の違いにより数多の各宗派に別れ、
今なお熾烈で激しい戦いを続けております。

世界の三大宗教の中の仏教だけはキリスト教やイスラム教と違って、
穏やかな印象を受けますが、
穏やかなのは日本における仏教だけのような気がしてならないのです。
その理由として、
2013.10.24の朝日新聞の国際面には、下記のような記事が載っておりました。
『ミャンマーの少数派イスラム教徒ロヒャンギ族のハニフさん(38)が
両親や弟と仏教徒の迫害を逃れて、マレーシアへ渡ったのは35歳。
貧しく学校に行けないまま成人し、読み書きはできない。
結婚したが子どもも学校に行けない。
云々・・』と書かれておりました。

世界に目を向けますと、日本では到底考えられない
『仏教徒による少数の異教徒への迫害』が現実として行われています。

現代日本の仏教各宗派の中では、
内部抗争や権力争いのような事象は
有る・・と、私は思っていますが、
そのようなことは絶対に表面には出しませんので、
表面上しか窺い知ることしかできませんが、
日本の仏教と限定し、更に大雑把に捉えると
少数異教徒への迫害もなく
ある意味平和な宗教だと思っています。

難しい仏教の本質など考えずに、
「墓前で手を合わせていると、頭の中が真っ白になり日常の些事を忘れてしまいます。
この感覚がいいのです」
そのような安寧な感覚になられるのでしたら、
仏教に素直に身を委ね、穏やかなお気持ちでお過ごしになられるだけで
よろしいのではないでしょうか・・。
そしてまた、HEBA様ご自身が自認されていらっしゃるように
「つかず離れずの状態で仏教徒の一人」で幸せな人生を
お過ごしくださいますことを祈っております。

人生の先輩であられるHEBA様に対して、
もし、失礼な表現がありましたら笑ってお許しくださいませ。m(_ _)m
仏教について
 葬式仏教に決別宣言をされた方に、改めて仏教をどう思うかと余計な問いかけをしてしまい、愚問を後悔しておりました。
 このたびはご丁寧な考察に基づきご回答を下され誠にありがたくあらためて拝読させていただきました。

 迫り来るであろう、自身の命終した時の処し方について、残った者にできるだけ負担をかけたくない方策をあれこれ思い巡らしているときに、たまたまあなた様の「決別宣言」を拝見、実体験に基づいたご意見に感銘を受けました。
 ただ、未練がましく次のようなことを思いながらあなたのご意見を聞いてみたいと思ったのでした。

 お寺と決別しても、長い日本人の生活習俗として馴染んでいる折々の儀式には仏教儀式が、形式だけではなく心象ににも深くしみこんでいる、という事実を認めざるをえません。
 「身内で弔ってくれ、お寺の世話にはならなくていい、骨は海に撒いてくれ、墓はいらない」と言い残したとしても、通夜、告別、拾骨、散骨、メモリアル等々新しい儀式には新しい様式が準備されなければならないでしょう。
 「簡単にやってくれ」とは言ってみても残された者は定まった様式もなく当惑することが多いのではないか。できるだけ当惑しないで済むようなプログラムを残しておいてやりたい。(これらの問題は葬儀屋さんからある程度の知恵は授けられると思いますが)
 また、お寺との縁は切れても、長年染み込んだ生活の感情、リズムの一部になっている仏教の習俗(盆、正月の家族の集い、仏壇など)と縁を切る割切りができるのかどうかも定かでない。容易に捨て去り難いこともあるのではないか。 

 と、未だにこのような逡巡を重ねているところです。

 このたびわざわざ貴重な時間を費やし、丁寧な考察により宗教全般にわたって自由自在なご説明をいただき、おかげ様で大分目の前が開けてまいりました。
 キリスト教の欺瞞性についてはおぼろに感じていましたが、それにしても仏教とは理解、納得しがたい難しい宗教です。訣別の前にもう少し理解しておきたい誘惑にも駆られます。こうしてつかず離れずの状態で仏教徒の一人になってしまうのかもしれません。

 10/16ログの最後で、私の墓参りのときの心境について解説されておりますが、少し言葉を変えて言わせてもらえば「墓前で手を合わせていると、頭の中が真っ白になり日常の些事を忘れてしまいます。この感覚がいいのです」
ここをとらえてあなたは誠に大げさな深層心理分析をされておられます。カルマの法則も、日々精進も、側頭部の神の領域も関係のない低レベルの日常からの逃避の一瞬でしかありません。揶揄のおつもりの論証と受け止めておきます。
 10/19ログ プー友たちの終カツの話、大変参考になります。これに懲りずにまた情報があったらお知らせください。共同埋葬、樹林葬などの話題があればいいのですが。

 お写真を拝見すると、プールで心臓を鍛えているというだけあって、まだまだ老婆を名乗るには間がありそうです。どうぞこれからもお元気なログで楽しませてください。
 お写真では見えない下半身は、たぶん竹の箒にまたがっているのだと信じています。 
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プロフィール
Author:千風
気が付けば、シニア.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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