生前に記しておいた終末期の事前指示書は何の役にも立たなかった・・日本のホスピス以外の多くの病院の終末期ケアはまだ哲学の域で滞っている?
2014-02-16(Sun)
今日、約半年久しぶりにプールに来たプー友(プール友人)がいる。
半年も顔を見せないと、彼の世に逝ってしまったと思われてしまうので、
「わたし、まだ元気で生きてるわよ!」と顔を見せにきたとのことだった。
彼女の話によると、脳内出血で約2年もの間、
植物状態であったご主人様を亡くされ、
その後のすべての事後処理も片付き、
やっと自分の時間が取れたと言う。
約2年前の冬、ご主人様が自宅の風呂場で倒れているのを発見後、
救急車で運ばれてからの約2年間。
彼女は雨の日も雪の日も、声も出せず、
体も自力では微動だにも動かせず、
また意思も表に現せないご主人様の元に毎日通い続けていた。
これ以上の回復が望めないのなら・・と考えて、
倒れて一年目の頃に、主治医に延命措置等を巡る
終末期ケアのことで相談を持ちかけたら、
「ご主人を即身仏にしたいのなら自宅にお連れくださって構いませんが、
当病院ではそれは出来ません。責任を取らされるのは僕らですからねぇ・・」
と一方的に拒否され、生前のご主人様の手書きに依る
リビング・ウィルも何の役にも立たなかった・・。
と嘆いていた。
更には、看取りも間に合わず、電話で呼び出されて病院に着いたときには、
医師が心臓マッサージ(胸骨圧迫)の真っ最中であり、
邪魔だからと廊下に出されたという。
彼女としては、「早く主人を楽にしてあげてください!」
と言いたかったそうだが、
医師という権限力のある人にとてもそんなことは言えなかったそうな。
死にゆく夫の手を握りながら、
倒れる前に好きだったお酒を唇に湿らせてあげたりとかの、
静かで穏やかで厳かな看取りを・・と、
事前に思い描いていた彼女には不平不満だけが残ったという。
結局は、元気なうちに自身のターミナル・ケアの意思表示を!
などと専門家と称する人たちに言われて、
事前指示書に記しておいても、ホスピスならいざ知らず、
普通の病院や、後に移った療養型病院においては何の意味も為さなかった。
日本の終末期ケアはまだまだ哲学の域そのものであると、
彼女は実感したのだという。
そして、彼女が喪主となり執り行った家族葬についても、
「お線香を上げに伺ってもいい?」
と訊ねる世間の常識なるものを重んじる善人を地で行くオバさま方には、
「家族葬というのはね。葬儀にもその後の自宅へのお悔やみ訪問も
家族以外の人には来て欲しくないという強い意思表示の見送り方なのよ。
だから、分かってね。」と我らプー友たちに念を押していた。
すでにこの国は超高齢化社会に突入している。
2025年問題も迫ってきている中、
死の自己決定権に関する論議が活発化しているようには見えない。
加えて、症状が重く手厚い看護が必要な
入院患者向けのベッド(急性期病床)について、
厚生労働省は、全体の4分の1にあたる約9万床を
2015年度末までに減らす方針を固めた。
高い報酬が払われる急性期病床が増えすぎて
医療費の膨張につながったため、抑制方針に転換するらしい。
2025年前後の多死時代に政府はどのような施策を行使するか。
本人自筆のリビング・ウィルに因る尊厳死希望を、
個々の担当ドクターの死生観に任せるタンスを貫き通すのか?
それとも、法整備に向けて何らかの考え方を示唆するのか?
難しい問題だが、世の高齢者たちには悠長に待つ時間はない。
前述の彼女のご主人様のように、また私の亡き母のように
ある日突然に、何の前兆もないままに倒れることも有り得る。
今日は元気な高齢者でも、明日には命に関わる病を発症して倒れ、
命だけは助かったとしても、重篤な後遺症で排泄は紙おむつ、
栄養は胃ろうという姿で、瞬きしかできないような姿で
延命装置に繋がれて、生きているのではなく、
無理に生かされるだけなのもしれない。
それも在宅で。
そして、多くの医師たちは、
あの川崎協同病院事件のような結果になるのを恐れ、
例え、リビング・ウィルに因る尊厳死希望でも
受け入れてはくれない医師のいる医療機関も多いらしい。
やはり前述の彼女から聞いた話で、
療養型病院内の他の病室から漏れ聴いた声の中には、
「私には自由に死ぬ権利とあってもいいと思う。」
と胃ろうや点滴を拒む人もいたという。
そして、
「もうこんな辛くて苦しい状態から解放されて楽になりたいのです!
無駄な点滴はしないでください!あなたの目的はなんですか?
お金儲けだけなのですかっ!?」
と、やっと出せるか細い声で喚いていた老女もいたという。
その老女は3日後、病院の裏口から、
○○病院と名の書かれた転院先の病院の車に担架のまま乗せられて、
走り去って行ったという。
なお、ベルギーでは2002年に成人の安楽死を認める法律が既に成立しており、
ベルギー下院は今月13日に18歳未満の子どもにも安楽死を認める法案を
86対12(棄権12)の賛成多数で可決したそうな。
もちろん、オランダやベルギーとは文化も宗教も違い、
死に対する決定権に至っては日本とは雲泥の差があることとは思う。
それに、わが国では数多の日本人の死生観からして
法で認められた安楽死というものは受け入れられないような気がする。
日本人とて死への考え方も千差万別ではあるが、
それは目前に己が死に晒されていないか、
また、迫っていないときの願望でしかなく、
そのときにならなければ、
そのときの気持ちは誰にも分からないことなのかもしれない。
それでも、老若男女に関係なく、あなたにも、私にも、
老いと死は避けては通れない道であり、
終末期ケア及び死の自己決定の行使とは、
一人称の死(死にゆく人の生前の意思)と、
二人称の死(愛する者の死を家族が受け容れられるようにするために
医療機関側が施す適切なケア)
三人称の死(仕事として死亡診断を下す医師が終末期に関与する死)を含めて、
三者三様のそれぞれの思惑が入り乱れ、そして、二人称の死の場合は、
揺らぎに揺らぐことを想像するとなんとも悩ましい問題であることだろうか・・。
半年も顔を見せないと、彼の世に逝ってしまったと思われてしまうので、
「わたし、まだ元気で生きてるわよ!」と顔を見せにきたとのことだった。
彼女の話によると、脳内出血で約2年もの間、
植物状態であったご主人様を亡くされ、
その後のすべての事後処理も片付き、
やっと自分の時間が取れたと言う。
約2年前の冬、ご主人様が自宅の風呂場で倒れているのを発見後、
救急車で運ばれてからの約2年間。
彼女は雨の日も雪の日も、声も出せず、
体も自力では微動だにも動かせず、
また意思も表に現せないご主人様の元に毎日通い続けていた。
これ以上の回復が望めないのなら・・と考えて、
倒れて一年目の頃に、主治医に延命措置等を巡る
終末期ケアのことで相談を持ちかけたら、
「ご主人を即身仏にしたいのなら自宅にお連れくださって構いませんが、
当病院ではそれは出来ません。責任を取らされるのは僕らですからねぇ・・」
と一方的に拒否され、生前のご主人様の手書きに依る
リビング・ウィルも何の役にも立たなかった・・。
と嘆いていた。
更には、看取りも間に合わず、電話で呼び出されて病院に着いたときには、
医師が心臓マッサージ(胸骨圧迫)の真っ最中であり、
邪魔だからと廊下に出されたという。
彼女としては、「早く主人を楽にしてあげてください!」
と言いたかったそうだが、
医師という権限力のある人にとてもそんなことは言えなかったそうな。
死にゆく夫の手を握りながら、
倒れる前に好きだったお酒を唇に湿らせてあげたりとかの、
静かで穏やかで厳かな看取りを・・と、
事前に思い描いていた彼女には不平不満だけが残ったという。
結局は、元気なうちに自身のターミナル・ケアの意思表示を!
などと専門家と称する人たちに言われて、
事前指示書に記しておいても、ホスピスならいざ知らず、
普通の病院や、後に移った療養型病院においては何の意味も為さなかった。
日本の終末期ケアはまだまだ哲学の域そのものであると、
彼女は実感したのだという。
そして、彼女が喪主となり執り行った家族葬についても、
「お線香を上げに伺ってもいい?」
と訊ねる世間の常識なるものを重んじる善人を地で行くオバさま方には、
「家族葬というのはね。葬儀にもその後の自宅へのお悔やみ訪問も
家族以外の人には来て欲しくないという強い意思表示の見送り方なのよ。
だから、分かってね。」と我らプー友たちに念を押していた。
すでにこの国は超高齢化社会に突入している。
2025年問題も迫ってきている中、
死の自己決定権に関する論議が活発化しているようには見えない。
加えて、症状が重く手厚い看護が必要な
入院患者向けのベッド(急性期病床)について、
厚生労働省は、全体の4分の1にあたる約9万床を
2015年度末までに減らす方針を固めた。
高い報酬が払われる急性期病床が増えすぎて
医療費の膨張につながったため、抑制方針に転換するらしい。
2025年前後の多死時代に政府はどのような施策を行使するか。
本人自筆のリビング・ウィルに因る尊厳死希望を、
個々の担当ドクターの死生観に任せるタンスを貫き通すのか?
それとも、法整備に向けて何らかの考え方を示唆するのか?
難しい問題だが、世の高齢者たちには悠長に待つ時間はない。
前述の彼女のご主人様のように、また私の亡き母のように
ある日突然に、何の前兆もないままに倒れることも有り得る。
今日は元気な高齢者でも、明日には命に関わる病を発症して倒れ、
命だけは助かったとしても、重篤な後遺症で排泄は紙おむつ、
栄養は胃ろうという姿で、瞬きしかできないような姿で
延命装置に繋がれて、生きているのではなく、
無理に生かされるだけなのもしれない。
それも在宅で。
そして、多くの医師たちは、
あの川崎協同病院事件のような結果になるのを恐れ、
例え、リビング・ウィルに因る尊厳死希望でも
受け入れてはくれない医師のいる医療機関も多いらしい。
やはり前述の彼女から聞いた話で、
療養型病院内の他の病室から漏れ聴いた声の中には、
「私には自由に死ぬ権利とあってもいいと思う。」
と胃ろうや点滴を拒む人もいたという。
そして、
「もうこんな辛くて苦しい状態から解放されて楽になりたいのです!
無駄な点滴はしないでください!あなたの目的はなんですか?
お金儲けだけなのですかっ!?」
と、やっと出せるか細い声で喚いていた老女もいたという。
その老女は3日後、病院の裏口から、
○○病院と名の書かれた転院先の病院の車に担架のまま乗せられて、
走り去って行ったという。
なお、ベルギーでは2002年に成人の安楽死を認める法律が既に成立しており、
ベルギー下院は今月13日に18歳未満の子どもにも安楽死を認める法案を
86対12(棄権12)の賛成多数で可決したそうな。
もちろん、オランダやベルギーとは文化も宗教も違い、
死に対する決定権に至っては日本とは雲泥の差があることとは思う。
それに、わが国では数多の日本人の死生観からして
法で認められた安楽死というものは受け入れられないような気がする。
日本人とて死への考え方も千差万別ではあるが、
それは目前に己が死に晒されていないか、
また、迫っていないときの願望でしかなく、
そのときにならなければ、
そのときの気持ちは誰にも分からないことなのかもしれない。
それでも、老若男女に関係なく、あなたにも、私にも、
老いと死は避けては通れない道であり、
終末期ケア及び死の自己決定の行使とは、
一人称の死(死にゆく人の生前の意思)と、
二人称の死(愛する者の死を家族が受け容れられるようにするために
医療機関側が施す適切なケア)
三人称の死(仕事として死亡診断を下す医師が終末期に関与する死)を含めて、
三者三様のそれぞれの思惑が入り乱れ、そして、二人称の死の場合は、
揺らぎに揺らぐことを想像するとなんとも悩ましい問題であることだろうか・・。
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