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がんばらない安らかな死に方をするには?また、病気からくる死の恐怖を捨て去るには?その答えは「死は数多の別れのひとつである」「永遠の休息に入るだけである」と考えることにしました。
数日前、「定年時代」という折り込みで紹介されていた、
「がんばらない死に方」の執筆者の言葉に、なるほど!と思った部分があった。

「宗教学者だった岸本英夫さんでさえ、
自身ががんにかかった時に死とはどういうことかという
答えが出ずに苦しまれたらしい。
そこで、岸本さんが考え抜いて出された答えは、
「死は別れのひとつなのだ」ということで、納得されたと書かれていた。

そこで我が家の書棚にある岸本英夫氏の書かれた
ガンとたたかった10年間---死を見つめる心」を引っ張り出してきて、
私が付箋を貼った数か所を読み返してみたら、
確かにP28~の「死の恐怖に勝つ道」の項の最後に、
『死というのは、人間にとって、大きな、全体的な「別れ」なのではないか。
そう考えたに、私は、はじめて、死に対する考え方が、わかったような気がした。』

と書いてあった。




死への心の準備

『人間は、長い一生の間には、長く暮らした土地、
親しくなった人々と別れなければならない時が、
かならず、一度や二度はあるものである。
もう、一生会うことはできないと思って、
別れなければならないことがある。
このような「別れ」、それは、常に、
深い別離の悲しみを伴っている。
しかし、いよいよ別れのときが来て、
心をきめて思いきって別れると、
何かしら、ホッとした気持ちになることすらある。
人生の、折に触れての、別れというのは、
人間にとっては、そのようなものである。
人間はそれに耐えていけるのである。
死というのは、このような別れの、
大仕掛けの、徹底したものではないか。
死んでいく人間は、みんなに、すべてのものに、
別れをつげなければならない。
それは、たしかに、ひどく、悲しいことに違いない。
しかし、よく考えてみると、死にのぞんでの別れは、
それが、全面的であるということ以外、本来の性質は、
時折、人間が、そうした状況に置かれ、
それに耐えてきたものと、
まったく異なったものではない。
それは、無の経験というような、
実質的なものではないのである。
死もそのつもりで心の準備をすれば、
耐えられるのではないだろうか。
ふつうの別れのときには、人間は、いろいろと準備をする。
心の準備をしているから、別れの悲しみに耐えてゆかれる。
もっと本格的な別れである死の場合に、
かえって、人間は、あまり準備していないのではないか。
それは、なるべく死なないもののように考えようとするからである。
ふつうの別れでも、準備をしなければ耐えられないのに、
まして死のような大きな別れは、
準備しないで耐えられるわけはない。
では、思いきって準備をしたらどうであろうか。
そのためには、今の生活は、また。
明日も明後日もできるのだと考えずに、
楽しんで芝居を見るときも、
碁を打つときも、研究をするときも、
仕事をするときも、ことによると、
今が最後かもしれないという心がまえを、
始終もっているようにすることである。
そして、それが、だんだん積み重ねられてくると
心に準備ができてくるはずである。
その心の準備が十分できれば、死がやってきても、
ぷっつりと、執着なく切れてゆくことができるのではないか。
このように心の準備ということに気づいて見ると、
ずいぶん、心がおちついてきた。
死というものが、今まで、近寄りがたく、
おそろしいものに考えられていたのが、
絶対的な他者ではなくなってきた。
むしろ、親しみ、やすいもの、
それと出逢いうるものになってきたのである。』



 死の別れの意味

『このことについて、さらに、つきつめてみると、
死という別れと、ふつうの別れと、
どう違うかということにゆきあたる。
ふつうの別れのときは、今まで親しかった人や、
その社会に分かれてゆくことはつらいけれども、
また、つぎの行く手がある。
その行く手のことを考えながら別れることができる。
死の場合には、死後のことが分からない。
あるいは、死後のことは考えまいときめた立場からすると、
これは、行く手のわからない別れになる。
そこに深刻さがあるのである。
船が出ていく波止場の光景で考えれば、
別れていくという事実はあるが、
その船はどこに行くのかわからない。
そういう別れだから深刻になる。
しかし、死後のことはしらず、
この人間生活だけが生活なのだという立場を徹底して考えると、
人間の意識の中にあるものは、
けっきょく、いままで、自分のやってきた人生経験だけである。
われわれがしっているのはそれだけで、
それ以外のことは考えられない。
経験したことのない死後の世界を無理に考えようとするから、
わからないで悶絶してしまう。
われわれが悩みうる領域は、人間経験についての悩みのみである。
この船出はどこへゆくのかわからない船出である。
自分の心をいっぱいにしているのは、
今いる人々との別れを惜しむということであり、
自分の生きてきた世界に、うしろ髪をひかれるからこそ、
最後まで気が違わないで死んでゆくことができるのではないか。
死とはそういう別れかただ。
私は、こう考えるようになったのである。
しかし別れのときという考えかたに目ざめてから、
私は、死というものを、それから目をそらさないで、
面と向かって眺めることが多少できるようになった。
それまで、死と無といっしょに考えていたときは、
自分が死んで意識がなくなれば、
この世界もなくなってしまうような錯覚から、
どうしても脱することができなかった。
しかし、死とは、この世に別れをつげるときと考える場合は、
もちろん、この世は存在する。
すでに別れをつげた自分が、
宇宙の霊に帰って、
永遠の休息に入るだけである。
私にとっては、すくなくとも、
この考え方が、死に対する、大きな転機になっている。』








「死は別れのひとつ」と「永遠の休息に入るだけである」という考え方は
私のように人生の後半生を半よれよれ状態で生きていて、
なお且つ、折りに触れて、老いと死に付いての考察を巡らせていると、
或る程度は受容することができるようになってきました。
そして、あくまでも独断と偏見に拠る私見ではありますが、
あまりにも生を頑張り過ぎる(生に執着し過ぎる)ということは
反面、死に対しても頑張り過ぎるということになり、
本人は心身の耐えがたい苦痛を抱えたままに逝き、
残された家族は、拭っても拭っても、
拭いきれない悔恨の情に苛まれるような気がします。
結局、「無理にがんばらない、でも諦めない生き方」は
がんばらない安らかな死に方」に繋がるような気がします。

病気で生きるのが苦しい、不眠で夜も眠れない、
今までの人生は後悔ばかり・・・


これらの心身の状況は嫌が応でも死を意識せざるを得ない
高齢者になれば当たり前の姿です。
私自身、確実に体のあちこちが壊れてきています。
嫌でもいずれは訪れる死を受け容れるざるを得ないのです。
そのときに慌てないように、やはり、死をタブー視するのではなく、
人生最大の別れのイベントとして、死への心の準備は必要である。
と改めて思った次第です。

人生というものは「出会いと別れの繰り返し」で成り立っています。
そして、生と死は常に表裏一体であるがゆえに、
「死は人生の数多くの別れのひとつ・・」
と、考えると、不思議なもので、平凡極まりなく、
これといった刺激も何も無い今日と言う日が、なんとも愛しくなってきますが、
この平穏な日々がある日突然、音を立てて崩れる去ることをも意味しています。
そのことは、残り少なくなりつつある生の時間を無駄にせず、
如何に生くべきか?に繋がるのです。
「老いと死を見つめながら今を生きる」を主テーマに、
ここに私の思いを書いてきて約三年半・・
今までよりも少しだけですが、私自身の永遠の別れに対して、
言葉には言い表せないような、ある種の別次元の眼が開けたような気がしています。
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テーマ : ひとりごとのようなもの ジャンル : 日記

tag : 岸本英夫 ガンとたたかった10年間 死を見つめる心 がんばらない安らかな死に方 永遠の休息

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Author:千風
気が付けば、シニア.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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