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死を見つめる心 ―生命飢餓状態に身をおいて―
普段は闘病記に類する本、特にガン闘病関連の本はほとんど読まないことにしている。
「死にゆく者と彼らを見守る家族との愛と感動もの」・・のごとき美談仕上げに編集されることに、
どこか抵抗を覚えるのである。

だがこの本は違った。
今まで読んだ死生学の本・・
例えば、エリザベス・キューブラー・ロスの本や、
著書が欧米人である臨死体験の本に感じていた
違和感をもすべて払拭してくれたように思えた。
エリザベス・キューブラー・ロスの本は何度も読み返したが、
彼女はキリスト教圏の人なので、
彼女の展開する死生観はキリスト教を軸にした
死生観に偏る感が否めないでいた。
しかし、この本の著者は日本人であり、
職業は宗教学者であるがゆえに、
「日本人と欧米人との生死観の違いは埋めようがない。」
ことをはっきりと示してくれている。
そして、現代の日本人に適した死生観までをも真摯に丁寧に見つめ、
我々には微塵も違和感のない、
理知的な考察に基づいた死生観を示してくれているようにも思えた。

私はここ数年来のガン検診で毎回必ず要精検を言い渡されている。
それでもなんとか要精検だけで「ガン宣告」は運よく免れており、
今現在は「生命飢餓状態=余命宣告された状態」に身をおいてはいない。
ゆえに、今現在は何度も何度も死について考えても、多くの死生観に関する本を読んでも、
自身の死についてはどうしても観念的な域を出ることはないが、
それでも、血圧が70台から上に上がらなかったりする体調の思わしくない日には、
頻繁にめまいを覚え、ふと、死の影が横切るのを感じることもある。
そんな日が続いても、否応なく時は流れ、私は刻々と死に向かって生きていることに変わりはない。

そして・・・時の流れとともにまた社会的背景の変化とともに、
人間の生き方も死に対する考え方も変遷し、
やがて、時が満ちて、私は嫌でも命飢餓状態に身をおかねばならない時が来る。
その時には激しい生への執着が訪れることは目に見えている・・。
と常々思っていたら、そのことを第一章の「死に出会う心構え」からズバリ指摘された・・。


P11~13
わが生死観―命飢餓状態に身をおいて―

二つの立場
生死観を語る場合には、二つの立場がある。
第一の場合は生死観を語るにあたって、
自分自身にとっての問題はしばらく別として、
人間一般の死の問題について考えようとする立場である。
これは、いわば、一般的かつ観念的な生死観である。
もちろん、自分も人間であるから、自分というものも、
広い意味では、その中に入っている。このような生死観も有用である。
自分も含めた意味での人間の生死観の考え方を整理しておくことは、
いざという場合の基礎的な知識となるからである。
しかし、もっと切実な緊迫したもう一つの立場がある。
それは自分自身の心が、生命飢餓状態におかれている場合の生死観である。
腹の底から突きあげてくるような生命に対する執着や、
心臓をまで凍らせてしまうかと思われる死の脅威におびやかされて、
いてもたってもいられない状態におかれた場合の生死観である。
ギリギリの死の巌頭にたって、必死でつかもうとする自分の生死観である。
この第二の立場の場合には、
第一の立場には含まれなかったもう一つのはげしい要素を加えている。
それは、人間が健康で生命に対する自信にみちて、
平安に日々の生活を営んでいる場合には、まったく、思いもかけない要素である。
人間が、生命飢餓状態におかれた場合に現れてくる生命欲のはげしさである。
生命欲は、生理心理的な一つの力である。
いつでも人間の心の底に潜んでいるに相違ない。
しかし、人間は、平生はそれをそのままでは感じない。
それがいざとなると、猛然と、その頭をもたげて来る。
そして、はげしい生への執着となり、死に対する恐怖となって現れる。
この要素を加えると、人間の生死観は、
何か質的にも別個のものになったかと思われるほど、
第一の観念的な立場とはことなってくる。

―中略―

生命飢餓感は、食物に対する生理的な飢餓感に酷似している。
胃袋に食物が満ちている時には、飢餓感を感じない。もちろん人間は、満腹していても、
食物について語ることはできる。
しかし、その場合の食欲は、食物の味のよいわるいというようなことに関連しているに過ぎない。
痛烈な飢餓感ではない。ところが胃袋に食物のない状態の人は、もっとほんとうに腹の減った苦しみに、
なやまされている。それは、単に、観念的においしい食物のことを考えただけでは、
けっして、いやされることのないものである。生命の飢餓感も、それと、まさに、同じである。
明日も、あさっても、そしていつまでも生きてゆくことができると考えている人の心は、
生命に満ちたりている。生命に対して飢餓感は感じていない。
それゆえ、そのような人は、観念的には、死の問題を考えても、
生命飢餓状態におけるような激しい生命欲にさいなまれてはいないのである。
生命飢餓状態におかれた人間が、ワナワナしそうな膝がしらを抑えて、一生懸命に頑張りながら、
観念的な生死観に求めるものは何であるか。何か、この直接的なはげしい死の脅威の攻勢に対して、
抵抗するための力になるようなものがありはしないかということである。
それに役立たないような考え方や観念の組み立ては、すべて、無用の長物である。



いずれは必ず死ななくてはならないとはいえ、
ジワジワと死に至るガンだけは嫌だな・・とつくづく思うが、
血縁的にまた遺伝子的にガンで死に至る確率も否定できない。
ましてや人間は誕生を選べないように死の形態をも選ぶことはできず、
自然の摂理に従わなくてはならない。
人は100%の確率で必ず死ぬことだけは納得しつつも、
よもや自分の身に死が訪れるとは考えたくない部分もある。

私の場合はまだ第一の立場の死生観ではあるが、
著者の言う「広い意味では、その中に入っている。このような生死観も有用である。
自分も含めた意味での人間の生死観の考え方を整理しておくことは、
いざという場合の基礎的な知識となるからである。」を念頭に
残り少ない生の時間をもっともっとより良く生きんが為に、
たとえ納得できなくても、また想うような結論が出なくても、
逃げたくても逃げられない老いと死を更に見つめたいと思う。
はげしい生命飢餓状態に身をおかなければならなくなるその日まで・・・。
110908r
夕闇のしじまに浮かぶ曼珠沙華紅蓮の炎で黄泉へと誘(いざな)ふ

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テーマ : 「生きている」ということ ジャンル : 心と身体

tag : 死生学 エリザベス・キューブラー・ロス 死に出会う心構え 生命飢餓状態

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プロフィール
Author:千風
気が付けば、シニア.........。 老眼鏡無しには新聞も本も読めず、 体の各部位が少しづつ、 壊れゆく 今日この頃、 この世での 残り時間を思うと、気持ちだけはアセアセ、ジタバタ、 ドタバタ。 心に反比例して 体の動きは うだうだ、だらだら、 とろとろ、のんべんだらりん、だらだらりん・・ついでに座布団に つまづいて すってんころりん。 ころころりん・・。 そんな明日をも知れぬ シニア女が老いと死の狭間で 揺れ動く、 切なくも哀しい乙女心。 じゃなかった・・(^_^;) 「お婆心?」を 時には超真面目に、 また或る時はユーモラスに、 独断と偏見思考で綴っています。
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